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書評「本能寺の変 431年の真実」。とある前提を飲み込むと謎がサクサク解けて気持ちいい

更新日:

 

最近、書店や雑誌などでもベストセラーとなっている文庫「本能寺の変 431年目の真実」(2014年 文芸社刊)。まず、作者の「明智憲三郎」という名前に、ん?と思った人も多いでしょう。なんでも明智光秀の子孫だというではないですか!
作者の家系だけでなく、本文の内容も驚きの連続です。さてさてこれらは果たして「真実」なのか。内容をまとめてみました。面白そうだなと思ったらぜひ読んでみてください。ネタバレをしりたくない方はそっと閉じてくださいませ。

定説とされている基本の物語

1582年(天正10年)6月2日、
織田信長からの仕打ちに恨みを持っていた明智光秀が、天下取りの野望達成と積年の怨みを晴らするために、少人数で本能寺に滞在していた隙を突いて謀反を起こし、信長を殺害した。

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本が掲げる定説に対する5つの謎

  1.  信長は、何故わずか数十人の少人数で本能寺に入ったのか。
  2.  光秀はなぜ謀反に走ったのか。
  3.  光秀は、本能寺での家康討ちが6月2日であることをいつ知ったのか。
  4.  家康は本能寺の変にどう関わっていたのか。
  5.  秀吉の「中国大返し」は何故可能だったのか。

読んだことのない人にはまず(3)の「光秀は、本能寺での家康討ちが6月2日であることをいつ知ったのか」に、疑問符が浮かんだでしょう。
そうなのです、この本の最大の魅力であり、かつ最大の弱点といえるのが「信長が本能寺で家康を討とうという計画を持っていた」という前提で論が進むところです。

納得のいかない方も、ここは読者の楽しみとして、一応「そういうこと」としてお読みください。

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全ては家康を討ち取るための舞台作りと考えると謎が解ける!?

◎なぜ信長は家康を討とうとしたのか?

この時点で家康を討たなくてはならない差し迫った危険はなかった。しかし・・・

  •  同盟後の家康の動きに信長は警戒心を高めていたのではないか。
  •  天下統一後は、唐入り(大陸への進攻)を企図していた信長は、唐入りの際、家康が国内で謀反を起こすのではないかと危険を感じていたのではないか。
  •  「子の代までもの責任」を果たそうとして、危険な芽である家康を討つことにしたのではないか。

◎家康討ち実行の場所を安土にしなかったのは何故?

  • 準備行動を事前に察知され、警戒される可能性が高いこと。
  • 警護手薄をチャンスとみた家康が、謀反を起こして、信長を討とうとしたから返り討ちにした。

という名分を立てるためには、安土以外の方が良いと考えた。

家康一行を本能寺に呼び込むには、6月2日の本能寺は絶対に安全だと偽装することが肝心だった。油断しての無警戒ではなく、「少人数でそこに居る」ということが信長の企てにとっては絶対条件だったのである。

◎計画では誰が家康を討つことになっていたのだろうか?明智光秀が討つことになっていた!?

① 信長は、何故わずか数十人の少人数で本能寺に入ったのか?

  • 信長と光秀が仕掛けた罠の計画の流れ。

5月10日前後
光秀は信長に呼び出されて安土城へ。
信長から、「家康討ちと、その後の家康領侵攻の具体的な計画」を打ち明けられる。
(ここも重要なポイントですがこれを証明するのは難しいのは言うまでもありません)
5月14日
家康主従と穴山梅雪を安土城に招く。
5月15日から
饗応を続ける。(17日までの饗応役は光秀)
5月17日
光秀は饗応役を解かれる。
本国に帰り、出陣準備をして、その時を待つ。

② 明智光秀は、なぜ謀反に走ったのか?

  •  怨み故の行動か?!(怨恨説)
  •  天下取りを夢想したのか?!(野望説)
  •  光秀一人の考え、決断で実行したのか?!(単独犯行説)
  •  誰かに操られていたのか?!(黒幕説)
  •  誰かと密謀、共謀していたのか?!(共謀説)

というのが主な説でしょう。

くずれゆく信長と光秀の関係

信長に仕えてからの光秀の活躍はめざましいものがありました。

  •  石山本願寺攻め
  •  紀州雑賀攻め
  •  丹波平定

と、1576(天正4)年から、1579(天正7)年の3年ほどの間に、信長の天下布武の戦いを中心を支えていた。
信長も光秀を高く評価し、単なる武将というより、腹心として重用していた、
信長の激しい気性ゆえの衝突はあったであろうが、今日に伝えられているような「いじめる→怨む」という緊張関係はなく、むしろ逆で、友好的な信頼関係にあったと思われる。信長は最期まで光秀を信頼していた。

◎ その関係が崩れ、謀反へと走ったのは何故か?

光秀を謀反決断へと追い込んだ2つの動きに注目します!

① 1582(天正10)年1月、信長の唐入りが本気であると確信を得たため。

  •  信長の長期政権構想では、ゆくゆくは有力武将たちは国外征服に派遣し、その地に領土を与えるという内容になっていた。
  •  このアイデアを持っていたことを裏付けるのが、後年の秀吉の挑戦出兵である。信長のアイデアを真似たものだと考えられる。
  •  光秀の領地没収と、遠国への移封が既定路線であることは、光秀もよく分かっていた。
  •  その上さらに、中国大陸に送り込まれるとなると、光秀の悩みと絶望は深まっていった。

② 同年2月9日、武田攻めの命令を出す。

3月、武田勝頼を滅ぼす。
5月7日、織田信孝へ長宗我部征伐を命じる。
この二つの戦によって、光秀は焦る。→謀反の動機

  •  二つの戦いによって、天下統一が一挙に進み、唐入りまで突き進むことが見えてきた。
  •  天下統一→遠国への移封→中国大陸への送り込み

この流れをどうしても止めたかった。(土岐一族を救済し、守り抜かなければならない!)この決断は、戦国の世の氏族長が負っていた責任だった。
信長が天下統一を成した後も、織田家一族の生き残りと繁栄のために、構想を描き、実現に向けて手を打っていた気持ちと同じことである。

◎ この二つの理由により、謀反を決意し、実行策を模索し始める光秀!

1582(天正10)年5月10日前後

  •  光秀は家康の饗応について相談があると信長に呼び出されて、安土城に行く。
  •  信長から家康討ちと、その後の家康領侵攻の具体的な計画を打ち明けられる。

【家康討ちの内容】

  •  本能寺に家康を呼び出すので、討ち取ること。
  •  そのために中国出陣準備と偽って、光秀を家康の饗応役を途中で解任して休暇を与えること。
  •  家康討ち取り後は、細川忠興と筒井順慶を従えて家康領へ侵攻すること。

【光秀の確信】

  •  本能寺へ光秀が早めに行けば、間違いなく信長を討つことができる。

【光秀の決断後の行動】

  •  盟友・細川藤孝を説得して味方にする。
  •  5月14日~17日の饗応の中で家康と談合し、謀反同盟を締結する。
  •  同席していた細川藤孝を加えた三者同盟を成立させる。

【決行】

  • 5月29日に謀反の日取りが決まり、同盟関係者に知らされた。(この年の5月は29日まで)
  •  6月1日の夜、亀山城を出発。
  •  6月2日の明け方、本能寺へ攻め込み、信長を討ち取る。
  •  同じく、嫡男・織田信忠を二条御所で討ち果たす。

【誤算・敗北】

  •  筒井順慶と細川藤孝・忠興父子が来なかった。
  •  「中国の大返し」と呼ばれるようになった、秀吉の素早い攻撃が押し寄せてきた。
  •  山崎での合戦に敗れ、脱走するも、醍醐あたりで一揆に討ち取られる。

③ 光秀は本能寺での家康討ちが、6月2日であることをいつ知ったのか?

  •  5月10日前後に、光秀は信長から家康討ちの具体的な計画を打ち明けられたが、日取りは決まっていなかった。
  •  5月14日~17日の間に、光秀の家康・藤高の三者同盟が成立するが、ここでも謀反の日取りは決まっていなかった。
  •  5月29日、信長は小姓20~30人を連れただけで、上洛、本能寺に入っている。
  •  同じ29日、光秀、順慶、忠興、家康に6月2日の上洛命令を出している。
  •  同じ29日、光秀は謀反決行が6月2日になったことを関係者に知らせる。

つまり、遅くとも5月29日には信長から知らされていたということになる。
信長にとっては家康討ちの準備が整った。
光秀にとっては、信長討ちの準備が整った。

徳川家康は、本能寺の変にどう関わっていたのか?

  •  信長と家康を同盟させていたのは、東の脅威・武田氏を押さえるという共通項があったため。
  •  その武田氏は本能寺の変の約3ヶ月後に滅亡。盟友関係を続ける必要はなくなっていた。
  •  信長、家康共に、切羽詰まって殺さなければならない理由、動機は見あたらない。
  •  とはいえ、お互いに相手の存在を非常に危険なものと位置付けて「隙あらば暗殺」の必要は感じていた。
  •  信長の招き(実質は命令)を受け、6月14日、安土の近くの近江番場に到着してから、本能寺の変までの間、家康は安土・京都・堺と巡り饗応されている。
  •  14日~17日の饗応役は明智光秀であり、その折、家康・光秀・藤高で謀反の三者同盟を成立させている。

⑤ 用心深く、用意周到な危機管理能力を持った家康が、何故わずかな人数で、信長の命令に従って、危険な信長の支配地へ行ったのか?

理由その1:光秀との盟約がすでにできていたから。
理由その2:いざという時には、堺からどのようにして脱出するかを周到に準備していたから。

つまり、信長を油断させる為に、わざと信長の術中にはまったように振る舞っていた!?同書によれば、 脱出に命がけの苦労をしたという「神君伊賀越え」の話は、以下のように脱出作戦が予め用意されていたことを隠すための作り話だと考えられるとする。

・ 5月29日
京都滞在を終えて、堺に入る。この時に信長から6月2日の上洛命令を受ける。
・ 6月1日
茶屋四郎次郎を京都へ先発させる。
(家康一行の堺見物が済んだ由を信長に伝えるためとしながら、本当は変の勃発の様子を一刻も早く知るため。)
・ 6月2日
早朝、家康は40人ほどで堺を出発。
本能寺の変が起きる。
茶屋四郎次郎は直ちに堺に急信に走る。
枚方で朝先行して堺を出ていた本多平八郎と行き会う。
堺に引き返した飯盛山で家康一行と行き会う。
(一刻も早く変の勃発を知るために、二重先発を敷いていた。)
即、堺を出発し、伊賀越えを図る。
・ 6月4日
伊賀者190人の護衛と、申し出た所々の者の案内で、機嫌良く三河へ帰る。
(脱出時の護衛も準備し、脱出ルートも選んでいた。)

【帰着後の家康の動きを整理してみよう!】

  •  東の甲斐・信濃の織田軍との戦いを「東陣」、西の光秀を討つ戦いを「西陣」とする。この二面作戦を展開。
  •  東陣の動きは迅速活発。成果を上げていきます。
  •  西陣は4日から9日まで全く動きがない。つまり、「光秀を討つつもりは無かった」ということになる。
  •  秀吉軍が予想外の早さで京都に迫ってきたので、光秀救援の為に手間取っている間に、13日、光秀は山崎の合戦で敗北していた。
  •  では、出陣を止めたかというと、さらに西に進めた。(6月16日)このことから、家康は「秀吉討ち」に動こうとしたのではないかと思われるとする。
  •  しかし、6月19日に秀吉からの帰陣命令が伝えられると、勝ち目がないと判断して撤収する。
  •  家康は光秀との同盟という義を捨てて、甲斐・信濃の簒奪という実利を選択した。

光秀の野望を下した秀吉

⑥ 秀吉の「中国大返し」は、何故可能だったのか?

中国大返しに対する二つの疑問点

  1.  膠着状態にあった毛利氏との和睦交渉が4日に何故かくもあっけなく決着したのか?
  2.  大雨疾風で洪水も起こった天候の7日の1日だけで、20里(約80km)の軍隊移動が可能だったのか?

1 の答え
「事前に毛利氏との間で和睦の申し合わせ(基本合意)ができていたから」

  •  秀吉は毛利氏の外交僧として活躍していた安国寺恵瓊と共謀して、毛利氏といつでも和睦できる状況を作った上で、わざと膠着状態において、謀反という大変化が起こるタイミングを計っていたのではないか。
  •  秀吉は光秀と家康が信長に対して謀反を起こすこと、信長が家康を本能寺に呼び寄せる日が謀反の起きる日であることを知っていた。
  •  情報を秀吉に流していたのは、新たな同盟を結んだ細川藤孝・忠興父子であった。

2 の答え
「早すぎる出発を隠すため、つまり秀吉と毛利の間には和睦の基本合意が密かに事前にできていたことを隠すために行軍の日程を操作し、大返しを行ったように【惟任退治記】で話を広めただけである、秀吉があとで<情報を書き変えた>とする。

これを裏付ける資料として筆者があげるのが

  •  5日付けの秀吉自身の中川清秀宛書状に「今日は沼(約25キロ先)まで来た」とある。
  •  8日付けの秀吉重臣の杉若無心から、細川藤孝の家老・松井康之宛の書状に「6月6日に本隊が姫路に帰還した」とある。
  •  和睦が成立した4日午後に備中高松を出発すれば、約25km先の備前沼に5日着。

5日溌日姫路着とすると、軍隊移動は可能範囲となる。

光秀の謀反は、信長の家康討ち計画を乗っ取ることにより成功した。時間さえあれば、光秀の味方は増え、同盟者は力を増し、天下取りまで進む可能性は大きかった。しかし、家康も秀吉討ちを断念せざると得なくなったほど、迅速果敢な秀吉の中国大返しが全てを狂わせた。

秀吉は光秀の謀反を乗っ取って、天下を手中にした、ということになります。

さぶりく・記

 

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[その他参考文献]
・ 秀吉の陰謀・本能寺の変(井上慶雪 祥伝社)
豊臣秀吉 七つの謎(新人物従来社編 共著)
・ 真説 本能寺の変(阿部龍太郎・立花京子・他 集英社)
・ NHK歴史発見8の中の 一人一説 本能寺の変 だれが信長を殺したか(早乙女貢・中津文彦・井沢元彦・杉浦日向子)





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