歴史好き――それも特に戦国時代に心惹かれる方なら、お城も守備範囲に入ってきますよね?
しかし、いつからでしょうか。
昔のようにワクワクと素直に楽しめなくなったり……そんな経験ありません?
私がその憂鬱を感じたのは、ふと訪れた某お城が
と知ったときでした。
史実だと天守閣なんてない――今なら、それもアリだと受け入れられる度量はありますが、当時は違います。
『人を騙してまでカッコつける城って馬鹿か!』と、本気で怒ってしまったのです。
あぁ、ダメな私。
戦国LOVEなら。
城好きならば。
天守閣の存在ひとつに左右されず、石垣や縄張りでも十分に楽しめるハートを持っているハズでしょう。
そんな心を誰よりも持ち、そして実際に研究を重ねてきた日本一のイシガキスト・千田嘉博教授が書いた一冊が本書。
それが『石垣の名城 完全ガイド (The New Fifties)(→amazon)』です。
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天守閣の受難、しかし石垣は
城を訪問するならば、やはり天守閣が見たい!
その思いはわかります。よくわかりますとも。
しかし残念なことに、明治時代以降、城の天守閣は破壊の対象となりました。
当時は、政府に不満を持つ士族が心理的な依り所とすることがありました。
いわばシンボル。
しかも、戊辰戦争で痛んでしまった城は、そのままにしておくと物理的にも危険でした。
特に著名なのが最も激しい戦場となった会津若松城ですね。
「武士の時代は終わったし、破壊してしまえ」
そんな考えのもと、天守閣は破損対象となってしまったのです。
あぁ、もったいない!
真田家でおなじみの上田城に至っては、建物が一時期遊郭に使われたとか。
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なんとも悲しいものです。
天守閣や櫓などの建造物は、その性質ゆえに悲劇から逃れられません。
それでは石垣は?
大丈夫ですよね。
もちろん保存状態に優劣はありますが、基本的には当時の姿のまま残されているケースが多い。
戦国時代や江戸時代から。
ありのままの姿を私たちに伝えてくれて、見応えバッチリ!
当時の工事担当者たちの誇りが詰まりに詰まった宝物なのです。
石垣に刻まれた大名のサインとは
石垣のことをちょっと想像してみてください。
あのデカさ、重たそうな石を、えっちらおっちら工夫をして、当時の人が運ぶ――。
我々には想像を絶するというか。
ショベルカーなどの重機もない時代にトンデモナイ苦労だとは思いませんか。
絶え間ない地震に襲われるこの大地で、崩れずに残っているのも相当スゴイことでしょう。
そこには昔の人の叡智と工夫がある!
その見方、楽しみ方を教えてくれるのが本書なのです。
例えば、石垣の表面に【工事担当者のサイン】のようなものが掘られていたりするのをご存知ですか。
本書で取り上げられた名古屋城は、20もの大名が参加しておりますから、そんな刻印がたくさんあるわけです。
ただし、現代においては、専門家でなければ誰のものか判別できない。
理由は単純。
ご丁寧にフルネームで入れられているワケじゃないんですね。
当時の人が見たらわかればいい。だから、刻みやすい独特のカタチとなる。
そこで本書では、実際にどんな印が使われていたか、写真を用いて懇切丁寧に説明しています。
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