武田信玄

近年、武田信玄の肖像画として注目されている2枚(左が九品仏浄真寺蔵で右が高野山持明院蔵)/wikipediaより引用

戦国時代

武田信玄 史実の人物像に迫る!父を追放し三方ヶ原後に没した53年の生涯

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信濃攻略

天文11年(1542年)。
父を追放し、家督を相続した信玄は、いよいよ攻勢を開始します。

まず攻めたのが、諏訪頼重です。

諏訪家には妹の禰々が嫁いでおり、夫妻の間には嫡男・寅王丸が生まれたばかりでした。

姻戚関係を結んだ相手を攻めるとなると、なかなか悪どいように思えますが、信玄にも言い分はあります。

頼重は信虎追放の混乱の最中、同盟していた信玄や村上義清と無断で、敵方であった上杉憲政と講和。

先に裏切ったのは諏訪だ――という言い分が成り立ちます。

信玄は諏訪に侵攻すると諏訪頼重を切腹に追い込みました。

諏訪氏は寅王丸に継がせることとなっていました。

が、信玄はこれも反故にします。

頼重の妹である諏訪御寮人を側室とし、彼女との間に生まれた男児(のちの武田勝頼)に諏訪家を継がせるのです。

諏訪を取った信玄の信濃侵攻は止まりません。

・天文12年(1543年) 信濃国長窪城主・大井貞隆を攻め降伏させ、望月昌頼を追放

・天文13年(1544年) 北条氏との和睦に至る

・天文14年(1545年) 4月、伊那郡の高遠城主高遠頼継、福与城主・藤沢頼親を降伏させた

・天文14年(1545年) 今川氏と北条氏の対立である「第二次河東一乱」)を仲裁

・天文15年(1546年) 佐久郡の内山城主・大井貞清を降伏させる

・天文16年(1547年) 佐久郡の志賀城主・笠原(依田)清繁を攻撃。笠原を支援する関東管領上杉氏の連合軍も撃破する。

・天文16年(1547年) 「甲州法度之次第」を制定(26ヵ条本と55+2ヵ条本があり、今川仮名目録の影響を受けている)

順調に見えた信玄の道のりですが、この後、二度の手痛い敗戦を喫します。

最初は天文17年(1548年)。
村上義清を攻めた「上田原の戦い」において、重臣の板垣信方&甘利虎泰らを失う惨敗を喫しました。

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この敗戦による影響は甚大で、信濃経営すべてがオシャカになるほどの危機に陥りますが、直後の【塩尻峠の戦い】で挽回、反武田の動きを封じます。

さらに天文19年(1550年)。

今度も村上義清方の城である「戸石城」を攻めるものの、一説によれば1千名もの犠牲を出し、撤退。

この大敗北は生涯唯一の軍配違い(作戦ミス)として知られ【戸石崩れ】と呼ばれました。

こうなると『村上義清って何者ぞ? 信玄に二度も勝つなんて、謙信以上か?』なんて思ってしまいますが、信玄にも若さゆえの驕りがあったのではないでしょうか。

実際、村上義清の反撃もここまで、です。

信玄は、天文20年(1551年)に戸石城を落とし、天文22年(1553年)には葛尾城も陥落させます。

没落した義清は、越後の長尾景虎を頼り、落ち延びるほかありませんでした。

なお、このとき目覚ましい活躍したのが真田幸綱真田幸隆)です。

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真田昌幸の父であり、真田信之真田信繁兄弟の祖父になりますね。

ドラマ『真田丸』では、草刈正雄さん演じる昌幸が、信玄の幻影を追うように謀略の限りを尽くしておりましたが、幼き頃より信玄に仕え、目の前で神業のような采配を見ていたら、そりゃあ憧れもするでしょう。

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宗教的な立場の違いから、武田信玄のことをかなり嫌っていた宣教師ルイス・フロイスですらも

「信玄は家臣たちから大いに尊敬される」

と記しているほどです。

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外交においても、その能力を遺憾なく発揮する信玄。

天文23年(1554年)、武田信玄と北条氏康、そして今川義元の三者は互いに婚姻関係を結び【甲相駿三国同盟】を締結させました。

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もっともこれは今川家の軍師的僧侶・太原雪斎の発案とされております。武田、今川、北条ともに「敵を絞りやすくなる」というメリットを享受したのでした。

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後顧の憂いなく、信玄の目は北へ。

そうです、越後・上杉謙信との激突です。

 

激突! 川中島

村上義清を追い落とし、勢いに乗る武田家。

しかし、それが正解だったのか?

そう問われれば、必ずしもそうとは言い切れないのが歴史の面白いところでしょう。

義清が頼った相手・長尾景虎とは、信玄の永遠のライバル・上杉謙信です。

本稿ではこの時点から上杉謙信と表記します。

イラスト/富永商太

天文17年(1548年)、兄・晴景を引退させて家督を継いだ謙信。彼は武田に追われた村上義清、高梨政頼らを受け入れます。

このまま武田が勢力を伸ばすことになれば、越後も危ういのではないか?

自らを頼ってきた信濃の者を見捨てるわけにはいかないのではないか?

そう考えた謙信は、信玄との対決に挑んだのです。

両雄決戦の地は、戦国ファン以外にも知られている川中島。

信玄は川中島より北の信濃を領有しており、この地はいわば国境線上のボーダーラインだったわけです。

さて、冒頭の「なぜ信玄と謙信は、日本史の教科書に掲載されるのか?」という話ですが……。

最も大きな要因は、川中島の戦いの人気でしょう。

日本人にとって戦国ロマンといえば川中島の戦い――そんな意識すら感じてしまいます。

ただし、この合戦は人気と知名度ほど、歴史的に見て重要ではないと思われます。

天下の趨勢を決めたワケでもない。京都のように政治的に大切なエリアでもない。

それでいて戦国ロマンには絶対欠かすことのできない合戦。

実は、何度、戦ったのか?ということすらハッキリしていません。

しかし、それを言い出したら始まりませんので、ここでは通説に従い、5度の戦いを端的にマトメさせていただきます。

それぞれの詳細については【城の奪い合い】という面白い観点から非常によくマトメられた「お城野郎さん」の記事リンクがございますので、個々にご参照ください。

 

第一次合戦:天文22年(1553年)

Alias(別名):「布施の戦い」あるいは「更科八幡の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信(謙信本人が出陣したかどうかは諸説あり)
When:天文22年(1553年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:武田信玄に追われた村上義清の旧領復帰を目指す
What:放火等はあったものの、本格的な戦闘には至っていない。武田側は、村上領が奪われることを阻止。上杉側にとって村上義清の旧領復帰は失敗したものの、北信濃国衆の離反を防ぐことができた

第一次川中島の戦い ポイントは塩田城! 信玄も謙信も城を中心に動く

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第二次合戦:天文24年(1555年)

Alias(別名):「犀川の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:天文24年(1555年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:「甲相駿三国同盟」締結で後顧の憂いをたった武田と、離反した善光寺奪回をめざす上杉の戦い
What:武田方は食料調達、上杉方は家臣離反といった不安材料に悩まされ、両者ともめぼしい戦果をあげられず。今川義元の仲裁により和睦

第二次川中島の戦いは、たった一つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した

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第三次合戦:弘治3年(1557年)

Alias(別名):「上野原の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:弘治3年(1557年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:北信進出を目指す武田を上杉が迎え撃つ
What:両軍とも不完全燃焼、戦果をあげられなかった。武田方が優勢であり、信玄は北信濃への進出を強める

第三次川中島の戦いは真田の調略と信玄の緻密な戦術が凄まじい!

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第四次合戦:永禄4年(1561年)

Alias(別名):「八幡原の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:永禄4年(1561年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:関東進出を狙う上杉を、武田が迎撃、激突する
What:最大の戦いで、一般的に「川中島の戦い」というと、大半の人がこの戦いを連想するハズ。ただし、軍記ベースで誇張され気味で、実態は不明な点がも多い。「啄木鳥戦法」が有名で両者多数の死者(武田:4千、上杉:3千)を出すものの、決着はつかなかった。これが両雄最後の直接対決となる
Notable Deaths(主要死者):武田信繁、山本勘助、室住虎光

川中島の戦い
第四次川中島の戦い(信玄vs謙信)一騎打ちなくとも超激戦になったのはなぜ?

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第五次合戦:永禄7年(1564年)

Alias(別名):「塩崎の対陣」
Who:武田信玄VS上杉謙信
When:永禄7年(1564年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:両者にらみ合い

第五次川中島の戦いは地味じゃない! 関東や越中をも巻き込む大戦構想だった

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総括としましては……。

川中島の戦いとは、どこまでの範囲が含まれるのか。

何をもって合戦とみなすのか。

その基準すら変動しかねないため、はっきりと特定できないというところです。

後世の人々がロマンを託したがゆえに、話を盛った創作部分が大きすぎて、実態がよくわからなくなってしまったふしもあります。

例えば信玄と謙信の一騎打ち。立派な銅像までありますが、これも想像の産物とされています。

一般的に最も有名なのが、第四次合戦です。

一騎打ちも第四次を想定したと考えられ、この戦いは信玄の弟・武田信繁や、山本勘助らが討ち死にする大激戦となりました。

両者ともに大きな犠牲を払った川中島の戦い。

結果からいうと、実質的には武田方の勝利と言えましょう。

激戦を通して、北信濃の支配を固めていったのは信玄です。謙信は強いけれども、地域支配のために効果的な陣地や城を得られず、足場を固めたとは言えません。

善光寺にしても、謙信が仏像を奪ったのに対し、信玄は寺ごと甲府に移転させてしまっています。

甲斐善光寺

領地を切り取るということに関しては、信玄の方が上手だったのですね。

しかし川中島の戦いが終結する頃から、信玄の身辺には別の重大な問題が起こってきます。

下手をすれば自身が滅ぼされるほどのものでした。

 

義信事件

第三次川中島の戦いが起こった永禄3年(1560年)。

駿河に激震が走りました。

「海道一の弓取り」と名高く、信玄にとっては同盟相手である今川義元が織田信長に討たれてしまったのです。

いわゆる桶狭間の戦いですね。

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これにより今川家の跡を継ぐのは若輩の上、不肖の息子とされる今川氏真に決まり、今川氏が斜陽化してしまうのは誰の目からもハッキリとしておりました。

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なれば、同盟を反故にしてでも攻めたくなるというもの。

他ならぬ信玄生誕の頃に今川氏から攻められていたような過去もあり、領国経営という観点からすれば自然な選択かもしれません。

しかし、問題がありました。

嫡男の武田義信です。

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彼の妻は、今川氏真の妹で、いとこにもあたる嶺松院でした。義信は義兄・氏真の治める駿河を攻めたくはないわけです。

信玄と義信の対立は、これ以前にもありました。

川中島の戦いの時点で、父子の意見が一致しなかったことが。

武田・織田の同盟にも反対しており、勝頼の妻として信長の養女が嫁ぐことにも反発していました。

要するに、積もり積もった反発、外交面での不一致が決定的な父子不和となったのです。

永禄8年(1565年)正月、飯富虎昌が成敗されました。

義信を唆したとの理由。そして義信は、籠舎(牢屋に入れられる)となってしまいます。

しかしこの二年後の永禄10年(1567年)義信は自害してしまうのでした。

武田義信が幽閉された甲府の東光寺(画像は仏殿)/photo by さかおり (talk) wikipediaより引用

信玄も父を追放し、権力を握った人物です。

義信は血統もよく、申し分のない嫡男であったはずです。

しかし、我が身を省みて、実子の謀叛のおそろしさを痛感していたのかもしれません。

捨て置くことはできない――ゆえに苦渋の決断を下したとしても、無理はないところではあります。

義信の死後、嶺松院は駿河に送り返されました。そしてその死によって、諏訪家を継ぐはずだった四男の武田勝頼が、後継者となるのでした。

なお、信玄のその他の子供たち詳細については、本記事の終盤に付記しておきます。

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