仙石秀久

仙石秀久と「無」が象徴的な旗指物/wikipediaより引用

戦国時代

仙石秀久が秀吉の下で大出世&大失態!センゴク主人公64年の史実と生涯

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四国攻略の尖兵隊として

4千石→5万石の昇進スピードを見るに、仙石秀久がトントン拍子で出世していたのは間違いないでしょう。

ただし、この出世を裏付ける史料は『改選仙石家譜』であり、確実にそうだと言える史料はありません。

実際、天正8年時点で洲本城を有したという記述には「早すぎる」という指摘もあり、実態は少々「盛られている」と見たほうがよさそうです。

もちろん、この先も信長や秀吉は攻撃の手を緩めませんから、秀久も働き続けます。

天正9年(1581年)に秀吉は、信長の命を受けて阿波国への攻撃をスタート。淡路ルートを経由して侵攻する【四国攻め】に取り掛かりました。

秀久は黒田官兵衛らと共に参戦し、阿波平定に貢献します。

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そして戦後は、官兵衛と共に洲本城に置かれ、今後の対立が想定される四国勢(長宗我部元親)に対する抑えとしての役割を期待されました。

美濃の国衆出身に過ぎなかった仙石家が、織田家の中枢・羽柴家(豊臣家)内でここまで重用されるようになったのです。

本人も驚きの立身出世だったことでしょう。

しかし……ここで重大事件が勃発します。

本能寺の変】です。

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このとき秀吉が【備中高松城の戦い】で水攻めを行っている最中で、清水宗治切腹を見届けてから【中国大返し】を強行し、【山崎の戦い】で明智光秀を討ったのはご存知の方も多いでしょう。

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一方、そのころ仙石秀久は、淡路の防御に専心、光秀派勢力の討伐に注力しておりました。

秀久が四国勢に負け、畿内への上陸を許していたら、秀吉が背後を衝かれたかもしれない――それを考えると非常に重要な役割でした。

結果、光秀を討った秀吉は【清須会議】に臨み、信長の有力後継者として名乗りを上げるのです。

同時に柴田勝家との対立も避けられないレベルにまで加熱し、その影響もあってか、秀久もいったん畿内に戻り、来るべき合戦に備えました。

 

長宗我部相手の四国征伐

柴田勝家vs羽柴秀吉による【賤ヶ岳の戦い】。

秀久は参戦しておりません。

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淡路へ戻って四国勢に睨みを利かせていたのです。洲本城主になったのは、このときがキッカケだったのでは?とも考えられています。

ただし、長宗我部氏との間に起きた【引田の戦い】では敗北を喫しており、長宗我部元親との間にある「因縁」は、このときから始まっています。

その後は、秀吉が着手した四国攻めに参加。

長宗我部の軍勢に対して10万とも言われる大軍が四国へ向けられると、秀久は宇喜多秀家・蜂須賀正勝・黒田官兵衛らとともに2万3000の軍勢で讃岐へ上陸しました。

・伊予
・阿波
・讃岐

三方向から攻められた長宗我部元親はここにあえなく降伏し、四国の覇者だった領地は土佐一国にまで減封されてしまいます。

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一方、その恩恵にあずかったのが秀久で、彼は讃岐国の大半を領有する国持大名にジャンプアップ。

以後は高松城(一説には聖通寺山城とも)に入り、いまだ敵愾心旺盛な島津氏に睨みを利かせる存在となりました。

こうして見ていくと、秀久の出世は極めて順風満帆。

古参の家臣であるという点を割り引いても、名族ではない生まれでここまで来れたのは、秀吉の功績に大きく貢献していたと考えるべきでしょう。

秀久は、漫画『センゴク』でもそうであるように、どんな場面でも基本的に最前線で体を張る役割を任され、内政よりも武勇型の人物であったことも想像がつきます。

当然、当人にもその自負はあったでしょう。

しかし、皮肉にもこの「自信」が、自身と長宗我部の未来に影を落とす「あの戦」につながったのではないでしょうか……。

 

九州へ渡った四国勢は初めから危うかった?

順風満帆な人生を送っていた秀久は天正14年(1586年)、九州攻めの先鋒を担う四国勢の軍監として派遣されました。

【主な四国勢】
長宗我部元親
長宗我部信親
十河存保

【軍監】
仙石秀久

この軍勢は、結果論とも言い切れない秀吉の手配ミスでありましょう。

なぜなら彼ら四国軍は出発前から「対立」することが必至の面々。元親と秀久の因縁について先に触れた通りだけでなく、十河存保(そごうまさやす)と長宗我部元親の間にも過去に対立がありました。

いわば「敵対の三角関係」ともいえる顔ぶれであり、後の大惨事も予見できるものだったのです。

九州へ渡海した秀久らの先鋒隊は、案の定、軍事判断で対立しました。

当時、島津氏の猛攻に晒されていた大友義統(大友宗麟の息子)は彼らに救援を要請しましたが、兵力に大きな差があったことから元親は味方の加勢を待つように主張します。

一方、秀久は即座の救援を提案。それに存保も乗ったことで元親の意見は受け入れられませんでした。

秀吉も、原則としては救援を待つように指示していたのです。

にもかかわらず秀久が功を焦ったのは、やはり元親との関係性があると思います。

もし、元親の主張を受け入れてスムーズに進軍できれば秀久の面目は丸つぶれです。逆に自身の立案で戦に勝てば、功績は増すばかり。

ここまで順風満帆な生涯を送ってきた秀吉直属の“エリート武将”ならではの増長があったのかもしれません。自信も度が過ぎれば過信に変わるというか……。

ともかく秀久・存保の意見が通り、いざ島津との衝突へ!

戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)】の始まりです。

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