山中鹿介(山中幸盛)

山中鹿介(山中幸盛)像・右は月岡芳年作「月百姿」/wikipediaより引用

戦国時代

山中鹿介(山中幸盛)は戦国一の忠義者? 七難八苦に立ち向かった生涯

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信長を味方につけ新たな再興運動をスタートさせるも

「もっと力を持つ人物に協力してもらわなければ!」

二度の失敗を経て、鹿介はそういった考えに至りました。

織田信長を味方につけるために京都へやってきます。

運良く直接会うことができ、信長は鹿介を「良い男だ」と褒め、「四十里鹿毛」という駿馬を贈ったとか。

そして織田家の客将扱いとなり、信長の中国攻略の一部として尼子家再興を目指すことになります。

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鹿介たちは、まず明智光秀の軍に加わり、各所の城攻めにかかりました。

敗走する明智軍の殿しんがりを務めて光秀から褒美をもらったこともあり、光秀はもちろん、織田家内での存在感も強めていったと思われます。

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それを信頼されてか、松永久秀討伐では信長の嫡男・織田信忠の下で働いており、久秀配下の武将と一騎打ちで勝利を収めました。

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上月城が毛利の大軍に囲まれる

その後、秀吉が中国方面攻略担当になったため、鹿介たちは明智軍から豊臣秀吉軍に移ります。

鹿介たちは播磨西部の上月城を拠点とし、ここから尼子家再興を目指すことにしました。

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しかし、2ヶ月ほどして3万以上という毛利の大軍に包囲されてしまいます。

なんという不幸な展開なのでしょう。

秀吉は1万ほどを率いて救援に向かったのですが、最終的に信長から「そこはいいから他を攻めろ」という命令が来てしまい、上月城は実質的に見捨てられることに……。

信長はおそらく、「鹿介がうまくやれればそれでよし、うまく行かなくても捨て石にはなる」くらいの考えでいたのでしょうね。

鹿介が有能でやる気があったのは確かですし、信長としては遠慮なく使える手駒が増えて万々歳だったでしょうし。

ついでにいえば、もしも鹿介がうまくやって本当に尼子家を再興できたら、それはそれで恩を売れますので、世間では「信長は亡国の将を助けてやった慈悲深い大将だ」という評価を買うことができたでしょう。

 

尼子勝久もまた泣かせることを言うのぅ

上月城では救援が期待できなくなった上、兵糧が尽きたために逃亡者が続出するようになりました。

正面切って戦うのは不可能と判断した鹿介たちは、毛利軍への降伏を選択。

おそらくは、このときも鹿介は「またダメだったなら、もう一度逃げてやり直してみせる」と思っていたのでしょうね。

しかし、毛利もさんざん手を焼いていますから、今度はそうそう甘くありません。

彼らの出した降伏条件は、尼子勝久と弟・助四郎の切腹、及び鹿介と立原久綱(鹿介と同じく尼子再興軍の中心人物)を人質にすることでした。

鹿介は降伏に際し、勝久の命だけは助けてくれるよう、吉川元春小早川隆景に懇願したそうです。

ですが、返事は「勝久が腹を切れば、城内の他の者の命は助けてやる」というもの。

つまり、勝久一人の命と、城内の兵全員の命を天秤にかけろ、ということです。

鹿介は勝久に対し、涙ながらに

「私もお供をしたいのですが、吉川元春は特に憎い敵なので、せめて奴の寝首をかいてから殿のお後に従います」

と言ったとか。

これに対し、勝久もまた泣かせることを言うのです。

尼子勝久/wikipediaより引用

私は一時とはいえ、尼子の大将という栄えある立場に立つことができた。

だから、自分が腹を切って皆が助かるならばそれで良い。

それに、元春は知勇に優れた男だから、そなたの思うような機会は来ないだろう。

だからお前は私の伴などせず、尼子の血を引く人物を探して、もう一度当家再興を目指してほしい。

かくして毛利軍の要求に粛々と応じたそうで……。

鹿介は、心ならずも二度、主君と涙の別れをしたことになりますね。

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