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細川ガラシャ(明智たま・光秀の娘)の壮絶生涯38年~最期は炎に包まれて

「戦国時代の女性は家と運命を共にするもの」

ガラシャも父の光秀と共に責任を取らされたのでは?
そんなイメージがあるかもしれません。

例えば【賤ヶ岳の戦い】で敗れた柴田勝家と、共に自害したお市の方などはそれに類するものとなるでしょう。

お市の方/wikipediaより引用

しかし、お市の方にしても、最初の嫁ぎ先・浅井家が滅亡した際は信長の許しを得て生き永らえ、清須会議の後に勝家と再婚しています。

戦国時代には、
【戦の責任をとるのは男連中であり、女子供まで責任を追うべきではない】
という考えがありました。

もちろんこの例に当てはまらず撫で切りが敢行された例や、一族郎党全員が処刑という例もあります。
が、それらはあくまで「例外」であるからこそ有名になったという側面もあり、ガラシャもまた特別な事情で助かったというより、戦国時代の慣例に沿っただけのことでしょう。

もっとも離縁されてからの幽閉生活はかなり過酷なものだったようで、復縁までの約2年間は辛い日々が続いたことは事実です。

ちなみに、こうした慣習にもかかわらず、お市の方が勝家と共に自害した理由は、彼女自身が二度目の「逃走」を拒否したためだとされています。
「もう逃げたくはない」というワケですね。

実際、勝家はお市の方に逃走を勧めていたのであり、そこからも「当時の女性が責任をとる必要がない」ことが見て取れます。

 

キリスト教との出会いで細川ガラシャに……

約2年の幽閉生活を強いられた細川ガラシャ。
謹慎が溶けると、細川家の正室として大坂の細川邸に舞い戻ります。

名門・細川家を配下に取り込みたい――そんな秀吉の取りなしも幸いしました。

この頃の細川ガラシャは幽閉の影響なのか、高山右近から耳にしたキリスト教の信仰に興味を示し始めました。
右近は夫・忠興の友人であり、熱心なクリスチャン大名として知られた存在です。

マニラでの高山右近/Wikipediaより引用

彼女は、九州征伐で忠興が大坂を離れたタイミングを見計らって教会を訪れます。
厳重な監視をかいくぐって侍女ら数人を従え、巧みに身を隠しながらガラシャは教会にたどり着きました。

そして教会に到着すると、キリスト教の教義について日本人修道士に様々な質問を浴びせます。

この修道士は、細川ガラシャの洞察力を受け
「これほど機知に優れた女性は見たことがない」
と絶賛するほどでした。

ガラシャはキリスト教の教えに感銘を受けると同時に、その場での洗礼を望みました。
夫に咎められたりして、今後、教会を訪問できなくなる可能性を考慮したのです。

しかし、教会側はガラシャの洗礼を見合わせます。

彼女が高貴な身なりをしていることは分かりましたが、だからこそ「キリスト教追放」を掲げた豊臣家ゆかりの女性である危険性を考慮したのです。

実際、ガラシャはその後、再び教会を訪れることはできませんでした。
侍女を派遣して宣教師とのやり取りを続けてはおりましたが、程なくしてバテレン追放令により宣教師たちが大坂を去ることになってしまいます。

そこでガラシャは急ぎの洗礼を望み、自邸に滞在しながら実施するのです。

与えられた洗礼名は「ガラシャ」。
この時点で初めてその名が付けられたのですね。

「細川ガラシャ」という呼称は生前には用いられず、一般に広く浸透したのはキリスト教が再び日本に普及した明治時代以降であったとされています。

ともかく、彼女の行動を聞き、夫の細川忠興は激怒しました。

自身の留守を狙い、さらにはバテレン追放令が出ている最中に洗礼を受けるなど言語道断。
スグに棄教せよ、と迫ります。

ガラシャは頑として棄教を拒みます。

仕方なく忠興も最終的には黙認。
この一件は二人の夫婦仲悪化を決定的なものとしました。

 

忠興との夫婦生活は決して順風満帆とは言えず離婚を望んでいた

忠興とガラシャ夫妻の結婚生活は、当初から決して順風満帆とは言えませんでした。
なぜなら忠興が病的なまでに短気――というより狂気のような奇行を繰り返していたからです。

「ガラシャの小袖で血を拭った」
「生首を投げつけた」

などなど、およそ現代では考えられない行動を繰り返しています。

しかし彼女も、それに耐え忍ぶだけの、か弱き女性ではありませんでした。
実は上記のエピソードには続きがあります。

「血をつけられた小袖を頑なに脱がず、最終的には忠興の懇願をもってようやく脱いだ」
「生首を投げつけられても平然としていた」

さすが武士の娘、明智光秀の娘と言いましょうか。
結果、忠興とガラシャはお互いの個性が絶えず衝突してしまったようです。

ガラシャは忠興に愛想を尽かし、真剣な離婚の相談を宣教師にもちかけておりました。
カトリックの教義で離婚が厳しく禁じられていたからです。

細川忠興/wikipediaより引用

当然ながら、宣教師も思いとどまらせようとしました。
が、このときの説得を「たいへんに骨が折れるものだった」と記録しており、ガラシャの意思が頑なであったことがわかります。

それでも最終的にガラシャは諦めるのですが……ここで強引にでも離婚を選択しなかったことが彼女の命運を大きく分けることになります。

もっとも、仮に「最期」が我々の知っている形でなければ、彼女の知名度も今ほど高くなかったかもしれません。
壮絶な最期は、皮肉にも彼女の人気に大きく関係しているでしょう。

 

関ケ原の戦いに巻き込まれた壮絶な最期とは

本能寺の変という、予測不能の出来事に翻弄され、危機に陥ったガラシャ。
彼女の最期は、ある意味それ以上に劇的な展開でした。

慶長5年(1600年)、関ヶ原前夜――。
徳川家康石田三成の対立が決定的になると、彼らはお互いに味方の武将を集めました。

もしも両雄がぶつかれば、日本は真っ二つに分断される。
どちらの陣営に味方するかで御家の命運は決まる。

そんな状況に揺れ動く全国諸将を傘下に従えるため、家康と三成は様々な工作によって寝返りや離反を促すのです。

では、ガラシャの属する細川家はどうだったか?
というと早くから家康への恭順を表明しておりました。

もちろん三成とて簡単に諦めるわけにはいきません。
諸大名に強い影響力を持つ名門・細川家を味方につければ、形勢は有利になる。

石田三成/wikipediaより引用

そこで三成は忠興の留守をついて細川邸を急襲、ガラシャを人質にしようとします。
当然ながら、細川家を自陣営に引き入れるためです。

ところが、ここで三成も予期せぬ出来事が起きます。

万が一の事態が起き、
「人質に囚われそうになったら自害せよ」
と忠興に伝えられていたガラシャ。

彼女は、三成の急襲を受けると自害し、侍女に屋敷を爆破させ、壮絶な最期を遂げるのです。

ガラシャ自害の方法については諸説あり、部下に切らせたとも自分で胸を突いたとも伝わっています。

享年38。
あまりにも悲劇的な最期でした。

ガラシャ自害――。
その一報を受けた夫の細川忠興は激怒したと伝わります。
自分で「万が一のときは自害せよ」と言っておきながら本心ではなかったんですね。

忠興は、怒りの矛先を変え、ガラシャを見捨てて逃げた家臣を手打ちにしようともしました。
が、家康に仕えてしまったため手出しができず、やむなく断念したというエピソードが残されています。

なんだかんだで忠興は彼女を手放せなかったのでしょう。
あまりにも歪んだ愛情かもしれませんが……。

 

辞世の句が象徴するガラシャの人生

ガラシャの詠んだ辞世の句は、その壮絶な最期と共に人々の記憶に残されることとなりました。

「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

「散るべき時を知っているからこそ桜は美しい。そして、人もまたそのような人がこの世にはふさわしいのだ」

この辞世の句には、ガラシャの「人生哲学」のようなものが反映されているように感じます。

思えば、彼女の生涯で、自由意志を行使できたことはほとんどありません。
聡明な人物でありながら、常に周囲の動きに翻弄され続けていたのです。

それが最後の最後になって究極の「選択」を追求する権利を得た――。

「ちりぬべき 時しりてこそ」
という果断さ、美しさに、人は魅了されるのでしょう。

文:とーじん

【参考文献】
『細川ガラシャのすべて』上総英郎編(新人物往来社)(→amazon link
『細川ガラシャ』安延苑(中央公論新社)(→amazon link
『細川ガラシャ ―散りぬべき時知りてこそ― 』田端泰子(ミネルヴァ書房)(→amazon link

 



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