絵・小久ヒロ

明智家 麒麟がくる特集

明智光秀の生涯55年をスッキリ解説!なぜ織田家No.1の出世頭が本能寺へ?

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惟任日向守となった明智光秀。

その後も西進を企てる信長の家臣として、様々な戦いに参戦します。

◆高屋城の戦い(1575年)
本願寺との戦いとの一つ

長篠の戦い(1575年)
武田勝頼を相手に設楽原で快勝

◆越前一向一揆(1575年)
※本願寺との戦いとの一つ

前述の通り、明智光秀の領地である近江志賀郡は、交通の要衝としても重要でした。
琵琶湖もあり、彼は水軍も備えていたのです。

しかし、好事魔多しともいったものでして。
信長へ抵抗する勢力はまだ残存しており、特に大坂の石山本願寺が手強い敵として立ち塞がりました。

石山本願寺は、複雑に入り組んだ水路を利用した要塞であるばかりか、鉄砲の腕が随一と知られた雑賀衆を防御に取り入れ、織田の侵攻を見事に阻むのです。

石山合戦図/wikipediaより引用

実際、天正4年(1576年)に明智光秀も石山本願寺との「天王寺の戦い」で苦戦を喫し、このときは信長の来援により助かっています。

さらに悪いことは重なるもので、光秀は5月になると重病に倒れてしまいました。

翌月には病死の報告すらあったほどで、7月になってようやく回復。
しかし、10月になると夫と入れ替わるように、今度は明智光秀の妻明智煕子が病に倒れ、11月に病死してしまいます。

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明智光秀にとって哀しい別れでした(ただし1582年の死亡説もあり)。

 

各地を転戦 信長に称賛される

妻を失おうが、体調を崩そうが。
織田家ならびに信長の勢いは止まりません。

天正5年(1577年)になると、畿内勢(明智光秀、細川藤孝、荒木村重)に対して雑賀・根来衆討伐の参陣を命じます。

さらには「信貴山城の戦い」を経て、明智光秀は「丹波攻略」を敢行。
丹波を攻めつつ、各地での転戦を続ける――休む間もないほど転戦の日々が続きます。

むろん働いていたのは明智光秀だけではありません。
織田家の中心武将達は、我先にと功を急ぎ、戦い続けました。

天正6年(1578年)には、荒木村重が謀叛を起こしたため、その対応にも追われました(有岡城の戦い)。

さらには中国方面に出陣していた羽柴秀吉を支援するため、佐久間信盛・筒井順慶とともに播磨へ向かい、そうかと思ったら今度は丹波の攻略を命じられたり。
書いているだけでも目まぐるしい展開でコトが進んでいきます。

そして天正7年(1579年)――丹波攻略はいよいよ最終段階に突入しました。

2月に八上城。
続けて8月には黒井城を落とし、丹波国を平定するのです。

それどころか細川幽斎(細川藤孝)と協力し、そのまま丹後国の攻略となりました。

さすがに人使いが荒すぎるんではなかろうか?
と心配にもなりますが、信長の下ではそうも言ってられません。

石山本願寺の攻略がなかなか進まない佐久間信盛に対し、信長から折檻状が送られ、以下のように明智光秀の武功が絶賛されておりました。

「光秀は丹波を平定し、天下の面目をほどこした」

この後、佐久間盛信は織田家を追放されてしまいます。
働きが悪ければ譜代の家臣でも追い出されてしまう。

一方、働きが良ければ、新参者でも重宝される。
明智光秀の武功がそれだけ素晴らしいと感じていたことは確かでしょう。

信長から信頼され、丹波を支配していた光秀。
ここから「本能寺の変」まで三年間です。

その間、いったい彼は何を思うようになってたのか?

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「本能寺」への道のり

天正9年(1581年)、織田信長は京都で「馬揃え」を行います。

この馬揃えはなかなか大変なイベントです。

信長配下の者たちが京都を練り歩いて馬や自身の鎧姿を披露するのですね。
いわば軍事パレード。

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これは単に、信長が派手好きだっただけでなく、正親町天皇からの要請もあったりして、同イベントは複数回行われました。
明智光秀も準備に忙殺されていたようです。

そして信長が天下に近づいていくと、光秀も武功以外のこうした仕事が増えていきます。

なにせ彼の経歴は将軍義昭の元家臣です。
細川藤孝と同じく洗練されており、豊臣秀吉柴田勝家などと比べて儀礼にも詳しく、適任だったことでしょう。

そして運命の天正10年(1582年)。
宿敵・武田勝頼を滅ぼした織田信長に対し、明智光秀には失言があったと伝わります。

「私たちも苦労しましたねえ」
というようなことを発言してしまい、信長が激怒して滅多打ちにした、というものです。

確かに主力は信長嫡男の織田信忠軍であり、明智光秀はさしたる役目を果たしておりませんでした。

それにしても滅多打ちはやりすぎでは?
だから本能寺の変に繋がった?
そう考えたくなる気持ちもわからなくはないですが、証拠はなく、むしろ可能性は低いと目されております。

では、この後に行われた徳川家康の饗応が原因では?
という話もあります。

信長が、家康を安土城で接待したとき、光秀の指示で出された魚が腐っていた――という理由で、またもや折檻されたという話ですね。
この殴られた一件で信長を恨むようになり、本能寺で殺したという怨恨説もまたフィクションでは度々用いられる話です。

他に著名なのが、1582年5月28日に行われた連歌会「愛宕百韻」でしょう。

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明智光秀は当日、こんな連歌を詠んだとされます。

「ときは今 あめが下知る 五月かな」
【意訳】今こそ土岐氏ルーツの明智が天下に号令するときだ

そして6月1日夜、秀吉の中国攻めを助けるため、13,000の兵を丹波亀山城から進軍させるのです。

 

「敵は本能寺にあり」

1582年6月2日――。
ついに、その日は訪れました。

日本史上最大のミステリとされるのが、戦国時代ならばこの事件。
幕末ならば坂本龍馬暗殺でしょうか。

ここで慎重に考えねばならないのは、
「本当にミステリなのか?」
ということです。

歴史的なインパクトが凄まじいゆえ、何かおぞましく、隠された真実があるのではないか?
そう人々の想像をかきたてる事件。

そのせいで荒唐無稽な黒幕説まで飛び交っています。

冷静に検証すれば、本来そこまで複雑怪奇ではないはずの事件であり、本サイトでも
【突発的に起きた】
という見方をしております。

なぜなら、このクーデターは
・織田信長
・織田信忠
という親子を揃って殺さねば成立せず、そんな千載一遇の好機がやってくるなど、誰にも予測ができなかったからです。

詳細はコチラの記事にまとめておりますのでよろしければご覧ください。

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かくして6月2日(新暦6月21日)。
明智光秀は、羽柴秀吉の毛利征伐の援軍と称して、その日の早朝、京都内へ進みました。

その途上、重臣達に信長を討つと告げたとされます。

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「敵は本能寺にあり!」

そして明智軍は、同寺を包囲。
信長は、寺に火を放ち自害したと伝わります。

二条御所にいた信長の嫡男・織田信忠も自害しました。彼らの手にまともな兵数や武器はなく、抵抗すらろくにできなかったのです。

あまりにあっけない天下人の退場でした。

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なお、遺体は灰となり、焼け落ちた寺と共に散ってしまったと思われますが、上記記事のように
【阿弥陀寺の清玉上人が遺灰を持ち去った】
という説もあります。

まぁ、寺に残された記録なので、なんとも言い難いですが、一応……。

 

三日天下

信長父子を討ったあと、明智光秀が直面したのは、いくつかの大きな誤算でした。

まず安土城へ入ろうとしたところ、勢多城主の山岡景隆に瀬田橋を焼かれてしまいます。
橋の修繕に時間をとられ、安土城に入った後は掠奪を開始しました。

強奪した名物を与え、金子を配り、味方を増やそうと奮闘する明智光秀。

しかし、状況は暗転していくのです。

最大の誤算であり痛恨の極みとなったのが、細川親子の戦線離脱でした。

昵懇の仲の父親・細川幽斎(細川藤孝)。
娘の明智玉(細川ガラシャ)を嫁がせた息子・細川忠興

彼ら父子は、明智光秀の味方に付く前に髪を切り、喪に服し、ダンマリを決め込んだのです。

さらには光秀の娘である明智玉(細川ガラシャ)を幽閉。
織田家に対して【身の潔白】を証明する姿勢に努めました。

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それだけではありません。
娘婿の筒井順慶にも要請を無視され、同じく娘婿の津田信澄(織田信長の甥っ子)は織田信孝に殺され、思うように味方を得られなかったのです。

そこへやってきたのが、来るはずのない豊臣秀吉。
毛利と和睦を結び、中国大返しという大技を決めて、京都へやってきたのでした。

そして両軍が激突――これが山崎の戦いです。

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秀吉の軍勢40,000に対し、13,000の明智軍では太刀打ちできるワケもなく、あえなく敗走。
落ち延びる途中、落ち武者狩りの手にかかり、討ち死にを遂げました。

享年55。

明智秀満や斎藤利三といった明智の重臣達もまた、もはやこれまでと悟り、滅びの道を辿りました。

織田信長が出る作品には、必ずといってよいほど出番のある明智光秀。
近年の大河ドラマでも、2016年『真田丸』、2017年『おんな城主 直虎』に出演しておりました。

しかし、その出番はあくまで信長を討つためのものであり、いわば影のようなもの。
それがいよいよ、彼自身に光が当たるのです。

その過程で、様々な史料も発見されることでしょう。
大河ドラマになるまで、なってからも様々な変化があることでしょう。

霧の中にあるような前半生にも光が当たること――。
そして、ドラマの主人公として魅力的に描かれることを願ってやみません。

なお、大河ドラマ『麒麟がくる』のキャスト一覧が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。

麒麟がくるキャスト最新一覧!武将人物伝&合戦イベント解説付き【常時更新】

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文:小檜山青

【参考】
『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』谷口研語(→amazon link
『ここまでわかった本能寺の変と明智光秀』洋泉社編集部(→amazon link
『明智光秀』小和田哲男(→amazon link
『明智光秀 (人物叢書 新装版)』高柳光寿(→amazon link
読売新聞

 

父親の名は?ルーツは?

謎多き明智光秀。
実は、父親の名前すら、諸説あります。

明智光綱
明智光隆
明智光国

「明智光○」であることは、わかっているのですが決定打に欠けるワケですね。
ドラマではどれを採用するのか。

ルーツは清和源氏の土岐氏支流である明智氏。
これまた謎が多いのです。

美濃に「明智」という土地は二カ所あります。

美濃国恵那郡明智
美濃国可児郡

恵那市は「光秀まつり」が開催されており、ゆかりの地ということになっております。

これも大河ドラマで一悶着ありそうな予感がします。
この地の明智氏は、遠山姓の明智一族であり、どうも光秀とは別の一族と推察されるのです。

光秀の家臣は可児郡出身者が多いこともあり、後者のほうが有力とされています。
大河ドラマに伴う観光がなかなか混乱しそうな話なんですね。

 

まったくの別名だった可能性も示唆されている

最後に、読売新聞(岡本公樹記者)による新たな光秀の出自説を引用させていただきましょう。

元々、光秀は「進士藤延」という名前であり、信長の美濃進出を契機に改名したというもので、なかなか歴史ロマンに溢れた話です。

◆明智光秀の前半生は「進士藤延」?改姓へ信長の戦略 : 読売新聞(→link

 信長は1567年、美濃国の大名で斎藤道三の孫、龍興を倒し、稲葉山城(岐阜市)に入ると、美濃の新たな支配者として岐阜城と名前を変えた。

信長にとって、三河国の賀茂郡(愛知県豊田市)の一部を「高橋郡」に、伊勢国桑名郡(三重県桑名市)を「横郡」に改称して尾張国に編入したように、地名を変えることは重要な戦略であった。

「地名だけでなく、人物の名前も変えています」と話すのは、愛知県春日井市の歴史研究家小林正信さん(54)だ。「本能寺の変の研究」で九州大の博士号をとった小林さんは、「信長が部下の名前を変える先駆けが『明智』姓の創出だったのです」と続ける。

光秀が同時代の史料で登場するのは、68年9月に信長が15代将軍足利義昭を奉じて上洛(京都にあがること)して以降のこと。光秀は信長の家臣とされているが、当初は足利幕府の幕臣だったとみられる。小林さんは、義昭の兄で13代将軍の足利義輝に仕えていた幕臣のリストを調べた。その結果、義輝の代に存在したが義昭の代には消えた幕臣の中に、光秀の改名前の人物と考えられる「進士藤延」という人物が浮かんだ。
(中略)

では、進士と明智がどうつながるのか。実は、光秀の母が、美濃国守護大名・土岐氏の一族で、ナンバー2の明智氏出身だったのだ。

ただ、当時は明智氏の内紛で、妻木城(岐阜県土岐市)を拠点とする「妻木氏」と奥三河へ逃亡した「菅沼氏」に分かれ、母の家は領地のある妻木を名乗ったため「明智姓」は空白となっていた。

ここに、新たな美濃の支配者の信長が登場した。

信長は敵国だった美濃を支配する正統性を主張するために、使われていない美濃の名族の姓を利用し、進士藤延を「明智光秀」に改名させたというわけだ。小林さんは「基盤のない京都周辺を統治したい信長にとって、幕府の官僚機構に精通した藤延(光秀)は願ってもない人材でした」と解説する。

もっとも光秀自身に武力の基盤はないに等しい。そこで美濃の名門の「母」の人脈を受け継いだ。のちに本能寺の変で重要な役割を果たす西美濃を拠点とする斎藤利三らの美濃武士を取り込むことで、信長軍で1、2位を争う勢力にまでなった。

ストンと腑に落ち、興奮を隠せないような説ではあります。

なぜ光秀の前半生が霧の中にあるのか?
それは、そもそも彼は存在しておらず、織田信長が作り上げるようにしたからだと考えると、ロマンを感じます。

そこまでした光秀に、最期は討たれてしまうのかと思うと!
これをドラマにせず、どうするのか!という話です。

もちろんこの説にも、さらなる検討は必要であります。
大河ドラマに採用されますと、その人物の関係史料が発見されやすくなります。

本放送をきっかけにして、光秀の霧の中にあった前半生がより色鮮やかになる可能性はあります。
今からワクワクしてきますね!

 



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