日本史上、最も派手で、最もナゾ多き下剋上【本能寺の変】。
同事件を強行した明智光秀は、織田信長に出会って以来のことは割とよく知られていますが、それ以前の事績となるとサッパリです。
唯一の手がかりとなるのが『明智軍記』という書物。
これが非常に厄介な代物です。
なぜなら明智軍記が成立したのは、本能寺の変から100年以上が経過した1693~1702年頃の江戸時代であり、しかも事実を記録した書物ではなく軍記物語、いわば小説なのです。
表現には誇張があったり。
著者のバイアスがかかっていたり。
あるいは、話のベースとなる事実確認も曖昧になるところがあり、学術的な観点からは見放されてしまうような一面があります。
それでも『明智軍記』は100%の創作とも言い難く、何かしらの事実エッセンスも含まれていて、例えば大河ドラマ『麒麟がくる』においても同書を避けて制作することは難しいでしょう。
そこで今回より始まった新連載『超わかる明智軍記』。
原書の65話に合わせ、全65回の連載で
・現代語訳
・周辺の史実解説
などに取り組みたいと思います。
著者は、現場へ赴くフィールドワークを基本としつつ、史料を丹念に読み込んで史実を追う戦国未来氏。
井伊直虎や井伊直政などの井伊家研究では、プロ顔負けの足を使った調査で、丹念に調べあげた在野の戦国ファンです。
では『超わかる明智軍記』の初回へと参りましょう(もくじ以降、戦国未来氏の本文へ)。
※本記事では主要部分をマトメて解説いたします。『明智軍記』の原文・現代語訳版を全文でご覧になりたい方は以下の参照サイトへどうぞ
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明智軍記 第一話には何が書かれている?
『明智軍記』は元禄6年(1693年)に前編5巻が出され、元禄15年(1702年)に後編5巻を加えて全10巻となったようです。
全部で65話あり、本連載も全65回というのは前述の通り。
史実の光秀がナゾばかりである以上、大河ドラマ『麒麟がくる』でもこの『明智軍記』を頼りにするしかないでしょう。
確かにこの本は、江戸時代に書かれた軍記物(小説)であり、史書ではありません。
が、100%創作というわけではないというのがミソ。
明智光秀という人物を知るキッカケにするには良いのではないでしょうか。
では『明智軍記』の第1話では何が書かれているか?
まずは第1話の表題(タイトル)を見てみましょう。
タイトル
明智軍記 第1話タイトル
「美濃国の守護の事。付、明智入道宗宿が事」
補足しながら現代語にバラしてみますと、こんな感じになりましょうか。
タイトルの意味
明智軍記 第1話タイトルの意味
「美濃国の領主であった土岐氏と、土岐氏に替わって美濃国の領主になった斎藤氏の事。おまけとして、明智光秀の叔父の明智光安(出家して宗宿)の事」
これだけではワケがわかりませんよね。
さらに本文を分解して解説を加えていきたいと思います。
一話のポイントは3つ
あらためまして、上記の原文・訳に補足を加えながら、まずは『明智軍記』の第一話を超マトメしてみます。
【明智軍記 第一話の概要】
【明智軍記 第一話】
土岐氏は源氏(美濃源氏)で、代々、美濃国(現在の岐阜県南部地方)の守護職を務めていた。
しかし、戦国時代の美濃国守護・土岐頼芸(ときよりのり)は、斎藤道三によって追い出されてしまう。
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美濃の戦国大名・土岐頼芸~道三に追い出され信玄に拾われた83年の生涯
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その斎藤道三を討ったのが斎藤道三の子・斎藤義龍。
義龍は明智城へ攻め込み、明智城を出た明智光秀は、諸国放浪後、越前国の朝倉氏に仕えた。
今回、取り上げてみたいポイントは3つです。
①土岐氏について
②斎藤氏について
③明智氏について
戦国ファンにはお馴染みの名前ですが、ドラマきっかけでご覧になられた方にはいささか敷居が高いかもしれません。
一つずつ確認して参りましょう。
美濃における土岐氏の祖とは?
土岐氏は源氏(美濃源氏)の家柄です。
『明智軍記』には、次のように記されています。
文治年中(1185年-1189年)、
源頼光の後裔・源光衡(みつひら)が源頼朝から美濃国の守護職に任命され、
美濃国へ行って「土岐美濃守光衡(ときみののかみみつひら)」と名乗ったのが始まりであり、
戦国時代の美濃国守護は土岐芸頼(のりより)であった。
ポイントは4つ。
ポイント①
土岐氏が源頼光を祖とする「土岐源氏」であることは確かなようです。
ポイント②
鎌倉時代の美濃国の歴代守護については完全に分かっていません。
西ヶ谷恭弘編『国別 守護・戦国大名事典(東京堂出版)』の「美濃国守護年表」(p.132)には、次のように記されています。
【鎌倉時代の美濃国守護】
大内惟義 1187年~
大内惟信 ~1221年
宇都宮泰綱 1252年~
北条氏 1285年~
北条時村 1296年~
北条政高 ~1333年
ご覧のように、誰が守護だったのか、不明な空白期間が数多くあり、「土岐美濃守光衡」こと土岐光衡の名前もありません。
後掲の『土岐累代記』や『美濃国諸旧記』等には、有力な御家人として知られる梶原景時も美濃国守護として山口城(岐阜県本巣市山口)に在城していたとあります。

神戸城跡(八幡神社)
次に、土岐光衡(ときみつひら)を見てみましょう。
室町時代の美濃守護は土岐氏独占だった
ポイント③土岐美濃守光衡
光衡は、オカトトキが咲き乱れる美濃国土岐郡に入って土着して「土岐美濃守光衡」を名乗ると、「オカトトキ」を土岐家の家紋にしました。
現在のキキョウです。明智家の家紋としてお馴染みですね。
土岐光衡の本拠地は、岐阜県瑞浪市土岐町一日市場にあり、居城の神戸城は、現在、八幡神社になっています。
別名を「神箆城」「国府野城」「土岐氏一日市場館」とも言います。
令和元年(2019年)には、境内に土岐光衡の胸像も建てられました。
ちょっとマニアックな内容なので読み飛ばしてくださって大丈夫ですが、以下に『土岐累代記』の該当箇所を掲載しておきますね。
※青文字が原文で、茶文字が訳文
『土岐累代記』 国房、土岐郡に住し、是れより、その子・左衛門尉光国、その子・出羽守光信、その子・伊賀守光基まで4代、世々濃州に住すといえども、美濃守には任ぜられず。後鳥羽院の御宇、元暦、文治の頃、源頼朝兼諸国地頭職に至りて、梶原平三景時、相模守惟義、宇都宮十郎泰綱等、当国の守に任ず。それより、文治・建久の頃、光基子・左衛門蔵人光衡、初めて美濃守に任じらるるに及びて、「土岐美濃守」と号し、当家の祖とす。濃州神戸城に住す。然れども、守護職は、光衡一代にて終わりぬ。
【意訳】源国房は美濃国土岐郡に住み、光国、光信、光基と4代続いたが、美濃国守護に任命されたものはいない。源頼朝は、美濃国守護に梶原景時、大内惟義、宇都宮泰綱、そして、光基の子・光衡を任命した。それで、国房ではなく、光衡を「土岐家の祖」とするのであるが、美濃国守護は、この土岐光衡の1代限りで、続かなかった。
肝の部分だけ見てみますと、
・鎌倉時代に源氏が住み着くものの守護職ではない
・光衡の代で源氏→土岐氏となった(国房説もあり)
・守護職の就任は光衡一代で終わる
とのことです。
それが室町時代になるとガラリと変わります。
土岐氏が美濃国守護職を独占するのです。
【室町時代の美濃国守護】
①土岐頼貞 1336年~1339年
②土岐頼遠 1339年~1342年
③土岐頼康 1342年~1387年
④土岐康行 1387年~1389年
⑤土岐頼世 1390年~1394年
⑥土岐頼益 1395年~1414年
⑦土岐持益 1422年~1465年
⑧土岐成頼 1468年~1495年
⑨土岐政房 1495年~1519年
⑩土岐頼武
⑪土岐頼芸
※⑩と⑪の土岐頼武と土岐頼芸の二人が、目まぐるしく入れ替わるところは省略しております
ご覧の通り、土岐氏が安定して美濃守護だった事がご理解いただけるでしょう。
織田信長視点で見た戦国史の美濃国は、ほぼ「斎藤氏」に集約されますが、それ以前は約200年にわたって土岐氏が美濃国を治めていたのです。
由緒ある源氏の一派ですから、武力という実力もさることながら、同時に高貴な血が尊ばれた可能性もありそうですね。
なお『明智軍記』では、戦国時代の美濃国守護を「土岐芸頼(のりより)」としていますが、正しくは「土岐頼芸(よりのり)」です。
斎藤氏は三代ではなく四代か
斎藤道三は、僧→油売り→武士を経て戦国大名(美濃国領主)になった人物。
司馬遼太郎『国盗り物語』や、同作を映像化した1973年NHK大河ドラマ『国盗り物語』で知られています。
ざっと斎藤三代のプロフィールを挙げてみますと。
斎藤利政(道三)
明応3年(1494年)~弘治2年(1556年)4月20日
「長良川の戦い」で討死。享年63。
斎藤義龍(范可)
大永7年(1527年)6月10日~永禄4年(1561年)5月11日
病死。享年35。
注目は何と言っても斎藤道三でしょう。
以前は一人で下剋上を成した【美濃のマムシ】として知られておりましたが、現在では、父・長井新左衛門尉と2代で成し遂げたと考えられています。
『六角承禎(義賢)条書(写)』にその旨が記されていたのです。
戦国史におけるスクープ的な出来事ですが、これまた原文は読みづらいので【意訳版】あるいはその後の解説をご覧ください。
「六角承禎(義賢)条書(写)」
一、彼・斎治身上之儀、祖父・新左衛門尉は、京都妙覚寺法花坊主落ちにて、西村と申し、長井弥二郎の所へ罷り出で、濃州錯乱の砌(みぎり)、心はしをも仕り候て、次第にひいて候て、長井同名になり、又、父・左近太夫、代々惣領を討殺成し、諸職を奪ひ取り、彼は斉藤同名に成りあがり、剰へ、次郎殿を聟に取り、彼、早世候して後、舎弟・八郎殿へ申し合はせ、井口へ引き寄せ申し、事に左右をよせ、生害させ申す。其外、兄弟衆、或は毒害、或は隠害にて、悉く相果て候。
(「春日力氏所蔵文書」)
【意訳】斎治(斎藤治部大輔義龍)の身の上についてであるが、①斎藤義龍の祖父・新左衛門尉は、元は京都妙覚寺の塔頭・法花坊の坊主で、還俗し、西村家の名跡を継いで西村勘九郎正利と名乗っていた人物である。美濃国へ来て、長井弥二郎に仕え、「濃州錯乱」(美濃国内乱)の時、心の端を掴み、次第に心を引いて頭角を現し、「長井」豊後守と称するようになった。②斎藤義龍の父・長井左近大夫(後の斎藤道三)は、長井家の宗主・長井長弘(その子・景弘?)を討って諸職を奪い取り、美濃守護代・斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで「斎藤」新九郎利政と称するようになった。さらに次郎殿(土岐頼純)と娘(帰蝶)を結婚させ、次郎殿が亡くなると、今度は次郎殿の弟・八郎殿(土岐頼香)を井口(岐阜県岐阜市)に呼び出し、口実を設けて切腹させた。その他、土岐氏一族を毒殺したり、暗殺したりして、滅亡させた。
いきなり義龍の祖父のことが語られています。
義龍の父・道三ではなく、祖父です。
つまり道三の父(義龍の祖父)が隣国にも認識されていたわけで、かつては京都妙覚寺の僧侶だったとあります。
そこから二代で美濃を乗っ取ったんですね。
では『明智軍記』ではどうか?
次のように記されています。
①斎藤山城守龍基(たつもと)入道道三と、②その子・斎藤山城守義龍(よしたつ)の2代で美濃国を取った。
③斎藤義龍は、長男・龍興(たつおき)を差し置いて、次男・龍重(たつしげ)、三男・龍定(たつさだ)を可愛がり、家督を譲ろうとした
④長男・斎藤龍興は、弟の龍重と龍定を殺害
⑤さらに、父・斎藤義龍も討ち
⑥明智光秀がいる明智城を攻め落とすと、明智光秀は、越前国へ逃げた
『明智軍記』は「斎藤氏が2代で美濃国を取った」とする新説と同じです。
この辺り、非常に興味深いですよね。
事実のアヤフヤな軍記物として軽んじられていたのが、実は、現代の新説と同じになっている。
ただし、問題があります。
親子2代というのが「道三の父&道三」ではなく「道三&義龍」と記されているのです。
結論から言うと、明智軍記の斎藤氏は一代ずれて表記されているのです。
つまり『明智軍記』を読むときに「義龍」と出てきたら「道三」、「義龍」と出てきたら「龍興」と脳内変換をしないといけないので、大変です (T_T)
【明智軍記→実際】
斎藤道三とあったら→斎藤龍基(道三の父)
斎藤義龍とあったら→斎藤道三
斎藤龍興とあったら→斎藤義龍
まとめておきますと……。
斎藤氏は「道三・義龍・龍興」の三代が通説でしたが、今では「道三父・道三・義龍・龍興」四代の新説が主流になってきており、さらに明智軍記の「一代ズレ表記」があるということです。
大河ドラマ『麒麟がくる』では、本木雅弘さんが斎藤道三役です。
父の代で礎を築いて、本木さんが美濃を乗っ取った――という四代説になるという脚本家さんの話もありました。楽しみですね。
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では次に「明智家の家系図」と「光秀が城を追われて越前まで行く場面」について見てみましょう。
明智家の家系図
さて明智氏です。
まずは系図を見てみましょう。
大河ドラマ『麒麟がくる』を念頭に入れて注目するのは明智光安でしょう。
西村まさ彦さんが演じられる、光秀の叔父ですね。
彼のことを『明智軍記』ではこう記しております。
「義龍の臣・明智兵庫助光安入道宗宿は、土岐の庶流・明智下野守頼兼に七代の後胤・十兵衞衞尉光継が次男也」
【意訳】斎藤義龍(=通説での斎藤道三)の家臣・明智光安(出家して宗宿)は、土岐氏の庶流・明智頼兼から7代後の明智光継の次男である
斎藤義龍は斎藤道三と脳内変換しなければならないのが何ともややこしいところ。
ともかく道三の家臣だった明智光安(ドラマでは西村まさ彦さん)が明智光継の次男である、と『明智軍記』には記されております。
比較的信用できるとされる『系図纂要』の「明智」にも「頼兼七世光継」とあり一致しています。
もともと明智家は、土岐家の庶子家で、美濃国守護だった宗家・土岐家の家臣でした。
そして土岐頼芸(ときよりのり)が美濃国を追われ、斎藤道三が領主になると、斎藤道三の家臣となります。
斎藤道三と明智家には、実は繋がりがあったとされます。
道三の正室・小見の方(帰蝶の母親)が、明智光秀の叔母(父・明智光綱や叔父・明智光安の妹)だったと『明智軍記』では言っているのです。
なお、帰蝶とは、沢尻エリカさんが演じる予定だった織田信長の正妻です。
はじめは土岐頼純の妻となり、頼純の死後に信長と再婚しました。
そして程なくして斎藤氏にクーデターが起こります。
信長をフォローし、濃姫の父でもあった道三が、斎藤義龍に討たれたのです、
嫡流で非凡な光秀に明智家を託した叔父光安
道三が討たれたときの明智家はどうだったのか?
あらためて『明智軍記』を見ておきましょう。
今度、龍興、親父・山城守を弑(しい)せられける事を怒つて、明智の館(たち)に引き篭もりけれ
【意訳】今回、斎藤龍興(通説では斎藤義龍)が、父・斎藤義龍(通説では斎藤道三・明智光安の妹聟)を「長良川の戦い」で討った事に怒り、明智光安は明智屋敷に引き篭もっていた
どうやら明智光安はトラブルを避けたようですが、この「引き篭もり」は義龍から「反逆」と捉えてられしまいます。
義龍は怒り、380余人(一説に800人)が守る明智城を3000余人で攻め落としたのです。
この城攻めは『明智物語』には弘治2年(1556年)8月5日~9月26日とありますが、実際には9月25日~26日の2日間だったそうで。
明智光安が城から打って出ようとすると、明智光秀も打って出ようとしたので、『明智軍記』には、明智光安が明智光秀の袖を掴み、次のように言って止めたとしています。
【明智軍記】某(それがし)は、亡君の恩の為めに相ひ果てるべし。御辺は、ただ今、身を捨つるべき処に非(あら)ず。命を全(まっと)ふして、名字を起こし給へ。それこそ先祖の孝行なれ。その上、光秀は、当家、的孫(てきそん)、殊(こと)に、妙絶勇才の仁(ひと)にて、直人(ただびと)とも覚へず候へば、某が息男・弥平次光春、甥の次郎光忠をも偏(ひとへ)に頼み候也。如何様(いかよう)にも撫育(ぶいく)して、家を起こされ候へ
【意訳】私(明智光安)は、亡君(斉藤道三)の恩に報いるために打って出て、おそらく討ち死にするであろう。あなた(明智光秀)は、今が死ぬ時ではない。生き延びて、明智家を再興しなさい。それこそが先祖孝行である。その上、あなたは、明智家の嫡流で、特に優秀で、凡人ではないようなので、私の息子・光春と甥・光忠を託します。いいように育てて、明智家再興のために役立てて下さい。
ドラマでも非常に見どころのある場面になりそうですね。
叔父の光安は光秀のことを
「明智家の嫡流で、特に優秀で、凡人ではない」
と評し、明智家の再興と、息子を託しているのがわかります。
身重の妻を背負って越えた「油坂峠」
では、光秀の父で嫡流の明智光綱はどうしていたのか?
というと既に早世しておりました。
嫡男・明智光秀はそのとき元服前だったため、光秀の叔父である明智光安が後見人となり、光安は当初、明智城代となっています。
明智光秀が元服したときに明智城を渡すため、家督相続から手を引く証拠として出家。
「宗宿」と名乗ったのはそのためですが、明智光秀が家督相続を断ったので光安が明智城主になっておりました。
では光秀はなぜ相続を断ったのか?
明智城に関して、次のような4つの伝承が残っています。
明智城に残る伝承1
明智光秀が元服した時、「将来、天下人に成るので、こんな小さな城や狭い領地はいらない」と言って家督相続を断ったという
明智城に残る伝承2
斎藤道三が亡くなって美濃国(斎藤義龍)との仲が悪くなった織田信長は、帰蝶を離縁したという。その帰蝶は、母・小見の方の実家(明智屋敷)にいて、明智城の落城時、自害したという
明智城に残る伝承3
明智光秀は京都に住む明智庶流家の子であり、「濃州錯乱」(美濃国内乱)の時、明智光安の居城・明智城に応援に駆けつけたとも
明智城に残る伝承4
地元には「明智城は長山城(岐阜県可児市瀬田長山)ではなく、顔戸城(可児郡御嵩町顔戸)だ」という伝承が残っている。学者は「顔戸城は美濃守護代・斎藤妙椿の城である」と否定しているが、斎藤妙椿の死後、廃城となって使われなかったようで、「濃州錯乱」(美濃国内乱)の時、京都から応援にやって来た明智庶子家が「捨て城であれば使おう」と入った可能性がある
ともかく明智城を光安に任せて城を捨てることにした光秀。
その後の行動は、以下のように記されています。
『明智軍記』光秀、理に服し、辞するに処なふして、一族を相伴ひ、涙と共に城を出て、郡上郡を経て、越前穴馬(あなま)と云ふ所を過ぎ、偖(さて)、国々を遍歴し、其の後、越前に留まり、太守・朝倉左衞門督(かみ)義景に属(しょく)して五百貫の地をぞ受納(じゅのう)しける。
【意訳】明智光秀は、明智光安の言うことが尤もだと思ったので、一族(妻子、光春、光忠)を連れ、泣きながら明智城を抜け出し、美濃国郡上郡白鳥から国境の油坂峠を越えて、越前国穴馬で隠れていた。すると称念寺の薗阿上人に呼ばれて越前国長崎へ移り、妻子を置いて諸国武者修行の後、朝倉義景に仕えると、500貫の領地を与えられた。
「油坂」というのは、「脂汗をかかずには登れない坂」の意だそうです。
明智光秀が妊娠中の妻を背負って越えたというエピソードもありますが、相当にタフな方だったのでしょう。
今なお難所であることは、「油坂峠」の近辺地図を拡大するとよくわかります。
郡上市の白鳥ループ橋をグルグル回りながら遊園地気分で一気に登り、「油坂さくらパーク」を通って、国境の短いトンネルを抜けると、そこは雪国、いや、越前国。
現在の住所は、福井県大野市です。
「日本100名城」であり「日本三大天空の城」の一つである越前大野城がある市街地まではまだ遠い(他は竹田城跡、備中松山城)。
油坂峠を越えれば下り坂で、降りきると、左手に九頭竜川。
川沿いに美濃街道を往くと、右手に超巨大な鳥居――総社穴馬神社(福井県大野市野尻)が見えてきます。
「穴馬」というネーミングが心をくすぐるのでしょう。
全国の競馬ファンが「大穴が当たる」と押しかけるそうです。
個人的には「このあたりに明智光秀が隠れていた屋敷があるはず」と思い、地元取材に取り組みたいのですが、周辺にいる人は紅葉狩りの観光客のみで地元民は誰もいません。
九頭竜ダムの建設により沈んだ12集落(鷲、長野、影路、野尻、大谷、米俵、持穴、箱ヶ瀬、池が島、荷暮、下半原、上半原)と孤立するため、移転を余儀なくされた5集落(伊勢三部落、久沢、東市布)、計17集落の氏神様を1ヶ所に集めて祀った「総社」が、この「総社穴馬神社」です。
そう、明智屋敷はダム湖の湖底にある…… (T_T)
500貫で召し抱えられるのは破格の待遇では?
『明智軍記』に話を戻します。
穴馬の明智屋敷に隠れ住んでいたことを知った長崎称念寺の住職・薗阿上人は、明智光秀を呼び寄せ、称念寺の門前に住まわせました。
不思議なのは、父親の家(明智家)が滅びれば、母親の家とか妻の家に逃げるはずなんですけどね。
たとえば、愛菊丸(元服して明智定政・後に土岐家を再興して土岐定政)は、落城時に母の家である奥三河の菅沼家へ逃げています。
明智光秀の妻の家は美濃国妻木の妻木家だといいますが、妻木氏は逃げずに妻木郷に残り、織田信長の家臣となっていますので、妻木郷に逃げ込むことも、織田信長を紹介してもらうことも出来たはずです。
ではなぜ明智光秀は越前国へ逃げたのでしょう?
美濃国内の妻木郷だと、斎藤義龍の追手が来て、妻木氏に迷惑がかかるから、他国の方がいいと考えたのかな?
それはさておき、光秀を500貫で抱えたというのは破格の待遇でしょう。
無名の豊臣秀吉は織田信長に30貫で召し抱えられ(『明智物語』「秀吉立身之事」)、軍師として有名な山本勘助でさえ武田晴信(武田信玄)に200貫で召し抱えられたという話があります。
優遇された理由は「名門明智家の嫡男だから」ということなのか。
あるいは「兵術や鉄砲術、築城術をはじめ諸国の情勢に通じた見識を有しているから」でしょうか。
この話は次回「従越前鎮加州之一揆事」(越前より、加州の一揆を鎮むる事)にて考察させていただきます。
お楽しみに (^^)/~~~
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文:戦国未来
※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです
※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください
明智光秀略年表
この年表は65回の連載が終わると完成します。
元号年(年齢) | 起きたこと |
---|---|
享禄元年(1528年)1歳 | 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話) |
弘治2年(1556年)29歳 | 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話) |