「明智が妻、緑髪を夫の客中の窮苦を帮助(たすく)」(『絵本豊臣勲功記』)

明智家 明智軍記

明智の黒髪伝説・髪を売り光秀を助けた妻煕子~明智軍記第2話 中編

夫の光秀よりもナゾ多き女性・明智煕子(ひろこ)――。

旧姓・妻木煕子には、戦国ファンお馴染みのエピソードがいくつか残されておりますが、その中でもとりわけ有名なのが
【黒髪伝説】
でしょう。

夫・光秀が宴会を開こうとしたところ、家計が逼迫してお金が足りなくなったとき、妻の煕子が自らの髪の毛を売って、その費用に充てたというもの(売った髪はかつらに使われる)。

江戸時代に入り、そのエピソードに心を打たれた松尾芭蕉が一句詠んだことから、今なお煕子の人物像を語る逸話として伝えられています。

果たしてそれは本当なのか。
明智の位黒髪伝説と、その背景を振り返ってみましょう。

 

明智軍記第2話には光秀の活躍が描かれ

織田信長に引き立てられ、歴史の表舞台に出てくるまで。
明智光秀の経歴や功績は、ほとんど闇の中です。

そこで前半生を描く上で頼りにされているのが『明智軍記』です。

江戸時代に成立した軍記物(小説)のため、ほとんど史料価値がないとされながら、それでも頼りとされているのは幾ばくかの事実も紛れており、捨て置け無い内容だからでしょう。

明智軍記の光秀は、如何なる人物として描かれているか?

第2話【永禄の一揆】では、戦場で大活躍した明智光秀が、朝倉義景から名馬と感状を与えられたところまで描かれています。
以下の記事に掲載いたしました。

今回のテーマはその周辺で起きていたと思われるもの。
越前の地にて、連歌会を開こうとしてお金に困るという【黒髪伝説】のエピソードへ続きます。

 

屋敷跡には明智神社 ガラシャも生まれたとされ

連歌会では、客をもてなす酒肴を主人(である光秀)が負担するものでした。

それもできないほど光秀は貧乏だったのか?

実は『明智軍記』の第1話で光秀は「500貫の知行地を与えられた」とあります。これが本当ならば、相当リッチな武将です。

【永禄の一揆】での活躍を経て、第3話に「早速、御家に召し出され、殊に数輩の寄子を預けさせられ候事、莫大の御厚恩にて候」とあるように数人の家臣を預けられるようにまでなっているので、否定できないところではあります。しかし……。

当初から500貫とは、あまりに「莫大の御厚恩」(異常な優遇)であり、いくらなんでも不自然です。

現代の価値には換算できないながら、無職からいきなり大手企業の重役になるようなもの。
さすがにありえないでしょう。

現実的には、はじめは称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎)の門前に住み、20貫で黒坂景久に召し抱えられ、【永禄の一揆】の戦功により500貫で朝倉義景に仕えるようになったと考えるほうが自然です。

このとき光秀は、一乗谷近く東大味町の屋敷に移ったとされています。

屋敷跡には現在、明智光秀(通称:あけっつぁま)を祀る明智神社が建てられており、娘の細川ガラシャもここで生まれたとされ「明智光秀公三女細川ガラシャゆかりの里」碑も立っています。

明智屋敷跡に建てられた明智神社(福井県福井市東大味町)

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そして、ここで登場してくるのが例の【黒髪伝説】なのです。

 

祝勝会として連歌の会を開くことに

【永禄の一揆】を鎮圧して、手柄をあげた光秀。
連歌の会を開くことにしました。

もしかしたら祝勝会や仕官祝、転居祝を兼ねていたかもしれません。

しかし、明智家は貧乏だったため、お客をもてなす酒肴代がない――そこで妻の明智煕子が、女性の命とも言うべき髪を切って売り、お客をもてなすことにしました。

オー・ヘンリーの『賢者の贈り物(The Gift of the Magi)』を思い出させる心暖まる話ですが、確実な史料に掲載された話ではなくバリエーションもいくつかあります。
一つずつ見ておきましょう。

バリエーション①

「永禄の一揆」祝勝の連歌会の費用を捻出するために髪を売った

バリエーション②

長崎称名寺の住職・薗阿えんな上人の企画で、明智屋敷で連歌の会を開催。この連歌の会の費用を捻出するために髪を切って売った。朝倉家の家臣たちが呼ばれ、明智光秀は気に入られて、朝倉義景への仕官が叶ったという

バリエーション③

来客者が各自飯を持参し、主人は汁だけを振る舞うという「汁講」が行われ、その費用を捻出するために髪売った

バリエーション④

明智光秀が全国を武者修行中に、旅費や食費を請求してきたので、必要な分だけ何度も髪を売っては仕送りした。『絵本豊臣勲功記』には「明智が妻、緑髪を夫の客中の窮苦を帮助(たすく)」とある。
※越前国に住んでいた明智光秀は妻子を長崎称念寺に託して全国武者修行に出たとか、京都に在住で妻子を天龍寺に託して全国武者修行に出たという話もある

『絵本太閤記』に目をやると、次のような記述が浮かび上がってきます。

『絵本太閤記』

「照子断髪沽酒」
「家、貧しければ良妻を思ひ、国、乱れては良相を思ふ」とかや。
(中略)
「自らもすべき方なかりし故、髪を断ってかつらとし、代を取て調へ侍ひつる」とて頭に被し帽子を取れば、さし櫛のさしにも黒く麗しかりし髪を根より切ってぞ居たりける。

同項目の前後をまとめて訳すと、次のような文意になります。

『絵本太閤記』
【現代語訳】
ある夜、来客があり、おもてなしが出来ずに困っていると、照子(煕子ではなく照子と表記されている)は出かけて、酒・肴を調達してきた。
明智光秀がどうして調達できたのか聞くと、「髪を切って売った。鬘(ウィッグ)用として売れた」と答えたので、「男として情けない」として武者修行の旅に出る。
そして朝倉義景への仕官が決まり、さらには織田信長に取り立てられて、丹波国を領するまで出世した

あるいは『名将言行録』ではこうなります。

『名将言行録』

「明智光秀」
光秀、貧賤なりし時、朋友、打集まり、輪番に汁事して談話せしことあり。
(中略)
妻、髻鬟けいかんり、いちひさぎて杯酒の料とせし由を答ふ。

こちらも同様に訳してみますと。

『名将言行録』
【現代語訳】
明智光秀は「汁事」のおもてなしが出来ずに悩んでいたが、妻が髪を売って酒・肴を調達してくれた。
感激した明智光秀は、仕官先を探して旅へ。
細川藤孝に仕えると領地として与えられたのが「石田」(石がゴロゴロ転がっている悪田)だったので、米田宗鑑に「良田に替えて欲しい」とお願いするも断られたので、主君を細川藤孝から朝倉義景に替えた。

両記録ともに、
【仕官できずに貧乏だったのが悔しくて主君を探し、朝倉義景に辿り着いた】
という内容になっていますね。

 

芭蕉が詠んだ句

後に松尾芭蕉は、自分をもてなしてくれる貧しい若夫婦の若妻の姿を見て、この「黒髪伝説」を思い出して一句詠みました。

「月さびよ 明智が妻の 咄しせむ」

この句の句碑が福井県の長崎称念寺にあり、それが下の写真です。

芭蕉句碑(長崎称念寺)

ちなみに、長崎称念寺は、新田義貞の墓があることで知られるお寺です。

しかし現在は「松尾芭蕉の句碑巡り」の一環で訪れる方が多く、義貞の墓が新田塚(燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地)にあると思い込んでおられる方が多いようです。

明日は

◆第2話後編「怪力無双・真柄直隆

をお送りしたいと思います。

文:戦国未来

※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです

※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください

 

明智光秀略年表

この年表は65回の連載が終わると完成します。

元号年(年齢) 起きたこと
享禄元年(1528年)1歳 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話)
弘治2年(1556年)29歳 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話)
永禄5年(1562年)35歳 【永禄の一揆】において、大将にアドバイスし、鉄砲を使って鎮圧に貢献する(明智軍記 第2話)

 



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