種子島火縄銃/photo by wikipediaより引用

明智家 明智軍記

光秀の鉄砲術はどこで身に付けたのか? 明智軍記 第3話中編

ヤングマガジンの人気漫画『センゴク』に登場した明智光秀をご覧になり、その不気味さに驚かれた方は少なくないでしょう。

戦国武将とは思えないほどサイケデリックな出で立ち。
凡人には理解し難い哲学のような言葉。

それでいて戦場へ出ると得意の鉄砲術で敵を倒しまくる――。

『なぜ、あんなに鉄砲が得意なのか?』
と思ったら、その根拠となる記述が『明智軍記』第3話「明智光秀鉄砲誉事付諸国勘合事」にも登場します。

原文を確認されたい方は以下の記事をご覧いただくとして、

◆『明智軍記』現代語訳と原文 第3話「明智光秀鉄砲誉事付諸国勘合事」

本稿では【光秀の鉄砲術】について見てみましょう。

もしかしたら大河ドラマ『麒麟がくる』でもクローズアップされるかもしれません。

 

光秀の鉄砲術に驚き実演させた義景

明智光秀の鉄砲術はどれほど凄かったのか?

これには幕末の館林藩士・岡谷繁実おかのやしげざねも関心を持っていたようで、自著『名将言行録』において次のようにまとめています。

「義景、光秀が加賀一揆の時、鳥銃にて余多(あまた)の敵を打落したるを感じ、其技を一覧すべしとあり」

なんでも「加賀の一揆を鎮圧する際、明智身光秀が銃で敵を倒しまくったことについて、朝倉義景が”一体どんな技なんだ?”と驚いた」というんですね。

確かに戦国大名でしたら、そんな情報を耳にして、放っておけるわけがない。

義景はさっそく光秀に実演をお願いし、約45m離れた的へ弾を100発撃ってみる――という腕前を披露することになるのですが、そういった内容は『明智軍記』第3話でまるまる掲載されています。

併せて見てみましょう。

 

弓と同じ的を狙って百発百中が……

『明智軍記』第3話、鉄砲の記述部分を少し詳しく見てみましょう。

永禄5年(1558年)9月20日、朝倉軍が加賀の一揆鎮圧に向かいます。

この戦闘は【永禄の一揆】と呼ばれ、明智光秀が大活躍するのですが、その際、多大なる威力を発揮したのが鉄砲でした。

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光秀は鳥銃(マスケット銃の中国語訳)で多くの敵を撃破――。
その報告を聞いた朝倉義景が「鉄砲が伝来して数十年になるが、そこまで使いこなしている人は珍しい」として感心し、「ぜひ目の前で撃ってみてはくれぬか?」と光秀にお願いしたのです。

居候の身から朝倉家に仕官していた光秀に、それを断ることなどできない……というより自身の腕をアピールできる絶好の機会でしょう。

光秀は、一乗谷の「安養寺」近くの馬場に安土を築き、そこに1尺四方(1辺の長さ約30cmの正方形)の的を置きました。

的の中央には目標となる黒丸が描かれており、射抜けば大成功!
実は「弓」にも使われる的でした。

果たして光秀は、いかほどの成果だったのか?

付近で明智光秀の射撃が行われたという安養寺跡(現在は場所を変えて再建)

射撃……スタート!

鉄砲から、的までの距離は25間(約45.5m)です。

光秀はそこで、午前10時から12時までの2時間で100発も発射!
単純計算、1時間で50発ですから、1分に1発ですね。

弾込めなどの準備は、おそらく明智光春や明智光忠に任せ、光秀本人は手渡される銃の引き金を次々にひいていったのでしょう。

実は織田信長も、戦場で最前線に出て、次々に鉄砲を発射した経験があります。
そのときは家臣たちが弾込めなどの準備をしていたことが『信長公記』にも記述されており、同時期の光秀がチャレンジしていたとしても何ら不思議ではありません。

ともかく100発撃って、結果はどうなったか?

光秀が撃った弾は、実に100発中68発もの黒丸を射抜き、残り32発も、黒丸は外しながら的に当たっていたというのです。

まさに100発100中――果たしてこんなことが起き得るのでしょうか?

 

光秀はどこで鉄砲術を身に付けたのか

当時、鉄砲は「大きな音がするだけの虚仮威し」とされておりました。

命中率は低いし、殺傷能力も低い。
ゆえにそこまで劇的に普及はしていなかったようですが、朝倉義景は永禄の一揆における光秀の活躍を聞いたばかりではなく、その腕前を目の当たりにして「これは武器として使える!」と判断したのでしょう。

明智光秀に100人を「鉄砲寄子」として預けることを決めます

では光秀はどこで鉄砲術を身に付けたのか?

現存する長崎称念寺(福井県)の伝承では「堺へ鉄砲の修行に行って身につけた」としています。

その他には斎藤道三に教わったという見方もあったり、『絵本豊臣勲功記』「新公方在朝倉家御元服属明智出姓」には、次のような記録が残されていたりしました。

「軍法、兵術、弓馬、短槍それが上、近年また鳥銃流行するをもつて、光秀、これを熟練せんと野となく、山となく駈け巡り、鳥獣を撃ちて試したるに、他日ははや岳縅(たげすり)も外さぬほどの術に至れり」

山野を駆けずり回りながら鳥や獣を撃って、鉄砲技術を身に付けたようです。
光秀、意外と野生児ですね。

ちなみに……そもそも鉄砲が伝来したのはいつなのか?
というと実は『明智軍記』にも記述があります。

 

鉄砲伝来~江戸時代は1510年が通説だった?

「鉄炮の事、昔はこれ無く、永正の頃、異国より初めて吾朝に渡りける由、聞き伝ふる」という記述が、『明智軍記』にある鉄砲伝来に関するものですね。

永正年間というと
【1504年から1521年】
に該当しており、一般的に知られる1543年説とはかなり違いますね。

普通は、学校の授業でも「1543年、種子島に流れ着いた中国船に、鉄砲持参のポルトガル人が乗っていた」と習うはずです。

この1543年説を否定せず、永正年間に既に輸入されていた――という見方もすることができます。

というのも1543年に伝わった「種子島」は、高性能のヨーロッパ式鉄砲を指しており、それ以前にも中国・琉球・朝鮮ルートで粗悪な中国式銃や朝鮮式銃が伝来していたとする説もあるのです。
例えば、倭寇が東南アジア系火縄銃をもたらしたとする説(天文以前東アジア式火器伝来説)があります。

『明智伝記』が書かれた江戸中期の通説は、『続応仁後記』や『北条五代記』にあった「永正7年(1510年)伝来」説だったのでしょう。

『続応仁後記』(巻三)「法住院殿御贈官位事」
抑此の鉄炮と云ふ兵器は、元来、異国より拵へ出して、本朝えは去る永正七年の頃、初めて薩州の種子島え渡り、其れより諸国へ拡充して、日本国中、悉く此の術を習練し、永代、武人の重器と成る。

三浦浄心『北条五代記』(巻之三)「関八州に鉄炮はしまる事」
享禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物のこゑする。「是は何事ぞや」ととへば、「鉄炮と云物、唐国より永正七年に初て渡りたる」と云て、目当とてうつ。我、是を見、扨も不思議、奇特なる物かなとおもひ、此鉄炮を一挺買ひて、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。

というわけで明日の第3話【後編】は
「光秀の全国行脚」
です。お楽しみに (^^)/~~~

文:戦国未来

※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです

※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください

 

安養寺(光秀射撃場のご近所)

越前市安養寺町に創建。

文明3年(寺伝では文明5年)に、朝倉敏景(孝景)が居城・一乗谷城を築いた際、安波賀(一乗ふるさと交流館の南東)へ移転する。

永禄10年(1567年)、足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷に来ると、安養寺内に御所を建てて9ヶ月間住んだ。

天正元年(1573年)、朝倉家滅亡のとき同時に焼失。

柴田勝家が天正3年(1575年)に北庄城を築いた際、現在地(福井県福井市足羽一丁目)に移転している。

 

明智光秀略年表

この年表は65回の連載が終わると完成します。

元号年(年齢) 起きたこと
享禄元年(1528年)1歳 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話)
弘治2年(1556年)29歳 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話)
称念寺領内に妻子を預け、諸国武者修行に出発(明智軍記 第3話)
永禄5年(1562年)35歳 6年間の諸国武者修行を経て帰国(明智軍記 第3話)
【永禄の一揆】において、大将にアドバイスし、鉄砲を使って鎮圧に貢献する(明智軍記 第2話)
永禄6年(1563年)36歳 4月19日、鉄砲演習。この結果、鉄砲寄子100人を預けられる(明智軍記 第3話)

 



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