『明智軍記』第3話によると、明智光秀は諸国を歩き回り、見聞を広めたと言います。
まるで【諸国や戦場を歩き回り、築城術も修めた】という山本勘助のようですが、『明智軍記』の記述によると、光秀の旅程は6年間に及んだだけでなく、武田信玄や今川義元あるいは宇喜多直家など総勢30名以上の戦国大名と会ってきたと記されているから凄まじい。
よくぞここまで大袈裟に……。
だからこそ本書は信頼されにくいのでしょう。
個人的にはそう思ってしまいますが、真贋の程を皆様にもご判断いただきたく、筆を進めて参ります。
果たして「光秀の諸国勘合」とは?
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疑問符ばかりが頭に浮かぶ光秀の諸国勘合
幕末の書物『名将言行録』(著:岡谷繁実)では、光秀の行動を次のようにまとめています。
「北陸より東山、東海を歴て、五畿に出で、夫より山陽、西海、南海を歴て、漸く六年に及びて、越前へ帰りし始末を物語する(中略)実名まで一家にて五十人、三十人づゝを物語りし」
なんでも武者修行のため旅に出て、北陸道、東山道、東海道、畿内、山陽道、西海道、南海道を通って越前国へ帰ったと言うのです。
しかも、30人以上の戦国大名に会ったというからトンデモナイ旅程であります。
では、その戦国大名とは一体誰なのか?
『明智軍記』第3話の本文から、著名な方たちを箇条書きで抜き出しますね(後に全員をリスト化しておきます)。
『明智軍記』第3話
・上杉輝虎入道謙信の勇健の形勢(ありさま)を見聞仕り
・大崎の伊達兵部大輔輝宗
・武田晴信入道信玄の武略の次第を勘弁致し
・駿河府中に今川治部大輔義元
・尾張清洲に織田上総介信長
・其れより京都へ上り、公方義輝将軍の御治世を窺ひ奉り
・安芸広島毛利大膳大夫隆元の数国を治めし猛威の行跡を一見
とまぁ、ミーハーすぎる光秀の姿が描かれており、ツッコミどころが満載です。
全国を回ったとすれば交通費や生活費はどうしたのか?
といった金銭面のことが気になってしまうばかりでなく、30人以上の戦国大名と「どうやって面会の機会を得られたのか」という最大のナゾもあります。
現在であれば、元地方議員で現プータローの誰かが森田健作氏や小池百合子氏に会うようなものでしょう。
政治家にとってはデメリットしかないですし、スケジュールだってあります。
仕官を望むにしたって何だかとりとめのない話ですし、そもそも時系列から考えると
【当時すでに死んでいたのでは?】
という大名まで含まれているのですからマズイです。
てなわけで一つずつ疑問を深堀りしていってみましょう。
まずは旅に出た時期です。
1557年から1562年まで6年間の旅だった?
光秀は、いつ諸国を見聞したのか?
『明智軍記』によれば越前に着いてからですので、おそらく1557年から1562年までの6年間でしょう。
そのころの光秀の動向を年表にしてみますと……。
年次 | 年齢 | 内容 |
弘治2年(1556年) | 29歳 | 明智城落城。美濃国郡上郡、越前国穴馬を経て長崎へ |
弘治3年(1557年) | 30歳 | 長崎称念寺領内に妻子を預け、諸国武者修行に出発。 |
永禄5年(1562年) | 35歳 | 6年間の諸国武者修行を経て帰国。 |
永禄5年(1562年) | 35歳 | 「永禄の一揆」に参陣。9月20日、御幸塚で戦う。 |
上記のとおり30~35歳の期間でしたら、一応、問題はありません。
別の史料『山岸系図』によると、明智城の落城後の光秀は、いったん美濃国に隠れ妻子を山岸家に預け、6年間(1557年1月~1562年2月20日)の武者修行に出たとのことです。
その際、明智光秀の長男である明智晴光は、山岸家の養子となり、山岸光舎と名乗ったとか(後に出家して玄琳)。
「弘治三年正月、初めて美濃国を立出、六ヶ年の間、普(あまね)く天下を遍歴して、以て、国々諸家の弓矢を相窺、永禄五年二月廿日、武者修行畢(おわり)て、一旦帰国し、然して又、越前国に移り、仮に先、朝倉左衛門督義景に仕官して、妻子、従類を扶助す。」(「山岸系図」)
6年あれば、確かに全国を回る時間はあるでしょう。
しかし問題は、旅費や生活費(食費)です。
越前国(山岸系図では美濃国)に残してきた妻子の生活費も必要になりますね。
称念寺が出してくれたのか。
それとも山岸氏や妻の実家(明智家滅亡後、織田家家臣となっていた妻木氏)が出してくれたのか。
一説に、武者修行と言っても、武士の姿ではなく、時宗の僧形で回ったとか、一般人の姿で働きながら全国を回ったなんて話もあります。
いずれにせよ生活は貧しかったのでしょう。
こうした状況から、称名寺には有名な【黒髪伝説】の一つが残されています(複数のパターンがあり、その一つ)。
明智光秀の妻・明智煕子が、夫の宴会のため自慢の黒髪を切って売り、酒肴代を用意したという話ですね。
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『奥の細道』の旅を終え、伊勢神宮に出むいた芭蕉は、神官である門人・又幻(19歳)の若妻が貧しいながらも精一杯のおもてなしをしたので、明智の黒髪伝説を思い出し、こう詠んだのです。
〽月さびよ 明智が妻の咄しせむ
私なら
〽月に行く 光秀妻を忘れ得ぬ
と詠みますけどね。
はい、夏目漱石の名句「月に行く 漱石妻を忘れたり」の本歌取り(パクリ)でスミマセン。
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話が脱線してしまいました。
次に、光秀が出会った戦国大名たちをリスト化してみましょう。
光秀が出会った30名の戦国大名リスト
『明智軍記』に名前が登場するのは次の方々です。
生没年と短評付きで29名をまとめてみました。
◆明智光秀の諸国遍歴(1557年~1562年)
大名 | 生没年 | 短評 |
上杉謙信 | (1530-1578) | |
葦名盛高 | (1448-1518) | 旅に出た1557年には既に他界 |
伊達輝宗 | (1544-1585) | 1564年に家督相続。大崎が伊達領になるのは1590年。 |
南部(石川)高信 | (1495-1571? 1581?) | |
宇都宮広綱 | (1545-1576) | 右馬頭とする史料皆無 |
結城晴朝 | (1533-1614) | |
佐竹義照 | (1531-1565) | 義昭か義顕の誤り |
千葉介親胤 | (1541-1557) | 旅に出た1557年に他界 |
里見義頼 | (1542-1587) | 1580年に家督相続 |
北条氏康 | (1515-1571) | |
武田信玄 | (1521-1573) | |
今川義元 | (1519-1560) | |
織田信長 | (1534-1582) | |
佐々木義賢 | (1521-1582) | |
足利義輝将軍 | (1536-1565) | |
三好義長 | (?-1386?) | 旅に出た1557年には既に他界 |
別所友治 | (1502-1563) | 就治の誤り |
宇喜多直家 | (1529-1582) | 石山城(岡山城)入城は1573年 |
三浦元兼 | (1543-1565) | 貞勝の誤り |
尼子晴久 | (1514-1561) | |
毛利隆元 | (1523-1563) | 広島ではなく吉田(高田市吉田町) |
大友義鎮 | (1530-1587) | |
龍造寺隆信 | (1529-1584) | 旗本の鍋島、諫早、神代 |
菊池義武 | (1505-1554) | 旅に出た1557年には既に他界 |
島津義久 | (1533-1611) | |
長宗我部元親 | (1539-1599) | |
北畠具教 | (1528-1576) | |
長野祐則 | (1526-1562) | 藤定の誤り |
関盛信 | (?-1593) |
いかがでしょう?
30ヶ所を6年で回るなら、単純計算1年5ヶ所ですので『可能かな?』とは思います。
しかし、既に亡くなっている戦国大名の名前も割と多く、明らかに作りが雑!
『明智軍記』の著者は、明智光秀の詳細な日記を見て書いたのではなく、別の資料を見て書いたのでしょう。
当時はエクセルなんてありませんのでデータ管理もできませんしね……。
ともかく、こうした状況から『明智軍記』を読むことは「無用」と言うより「有害」とすら言われたりしますので、批判的なスタンスで読むのが大切になります。
職探し? それとも、武者修行か? 勘合か
最後に「諸国歴訪の目的」を探ってみましょう。
当時の明智光秀は浪人です。
しかも妻子がいるのですから、何よりも【職探し】が大切な気がします。
他に考えられるのは朝倉義景も言っていた「武者修行(現在なら資格習得)」とか、あるいは「勘合(敵情視察)」も該当するかもしれません。
まず仕官について。
当時の仕官については、いくつかの逸話が残されています。
『武功雑記』には、三河国の牛久保城主である牧野右京大夫に仕えていた
『太閤記』には、毛利元就に仕えようとしたら、頭はいいが寝ている狼のような顔をしている――喜怒哀楽が激しい顔で穏やかな性格ではないからと断られた
「才知明敏、勇気余り有り。然し、相貌、狼が眠るに似たり。喜怒の骨、高く起こり、その心神、常に静ならず」『太閤記』
「人相が悪いから断られた」というのは、斎藤道三の話がごちゃまぜになっている可能性もあります。『美濃国諸旧記』には、土岐頼武が「胸中、面魂(つらだましい)、何様大事を企つべき相あり」として斎藤道三の仕官を断ったという話があります。
ちなみに光秀の顔については、斎藤道三が「道三見之可為萬人将称有人相」(万人の大将の人相)と評価しています(喜多村家伝『明智系図』)。
勘合とは?
『明智軍記』には「勘合」「武者修行」とあります。
明智光秀が得意なのは、兵術(「兵法」は剣術のこと)、鉄砲術、築城術です。
これらは6年間に渡る「武者修行」で身につけたと言いますが、「武者修行」であれば全国の戦国大名の名ではなく、武芸者の名が並ぶはずです。
明智光秀の兵術と築城術の師は、角隈石宗(つのぐませきそう・大友氏家臣)だとか。
「中にも明智十兵衛は、先年、武者修行の時分、豊後国の住士・角隈越前入道石宗と云ふ士(さむらひ)、鎮西無双の軍法、城取りの名人なり。彼が秘書、残る所無く相伝せし故に、光秀、縄張りの棟梁たり。」
『明智物語』(第16話)「三好一族将軍御館攻事付被築二条城事」より
兵術は北条流で、鉄砲術は長崎称念寺の門前に住んでいる時に堺へ行って習得したとも、美濃国在住時代に斎藤道三が教えたとも。
「勘合(かんごう)」については、ちょっと言葉自体の意味がわかりづらいかもしれません。
「武者修行」ではなく「調べあわせること」「比較学」であり、「諸国の軍事力を中心とする国力の比較調査」です。
その調査内容は『明智物語』にこうあります。
・諸家の法式(家法、軍法)
・自領を治め、敵国を討ち従えた武勇、智謀と兵術の次第
・諸家の老臣、武頭の仮名と実名を一家につき30~50人
龍馬が光秀の子孫説について
さて、最後は余談ですが……。
「私は明智光秀の子孫である」と名乗る人が現れた場合、「本当ですか?」「証拠を見せて下さい」と言うのは野暮というもので、本人が信じていれば、あるいは、周囲の人間が信じていれば、それでいいと思います。
斎藤道三は、二男や三男を可愛がり、長男・義龍を疎んじたので、斎藤義龍は弟たちを殺し、さらには父・道三までを殺したといいます。
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斎藤義龍が親や弟を殺せたのは、
「自分は斎藤道三の子ではなく、土岐頼芸の子である」
と信じていたからではないでしょうか?
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事実より思いの方が強いんですね。
話は飛びますが、
【坂本龍馬は明智光秀の子孫である】
という伝承、噂があります。
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果たして坂本龍馬本人はこれを信じていたでしょうか?
本人はともかく周囲の人々はそう思い
「彼なら何か大きな事をやりそう」
と期待していたようです。
そして次第に坂本龍馬も「明智光秀の子孫である」というネームバリューを活用できることに気づいたのはないでしょうか?
坂本龍馬は北辰一刀流桶町千葉道場(通称:小桶町千葉)の門人ですから、それなりに強かったと思うのですが、寺田屋事件では、高杉晋作から贈られた拳銃を使っています。
──なぜ、刀を使わない?
実際に理由を考えるといくつか浮かんでは来ます。
◆寺田屋のような室内では、刀を振り回しにくい
◆刀が届かない距離にいても倒せるから拳銃の方が有利
◆銃声を聞いた野次馬が集まってきて、その隙に逃げられるかもしれない
まぁ「普段から拳銃に慣れていたから」でしょうね。
では、なぜ、高杉晋作は拳銃を贈ったのか、なぜ坂本龍馬は拳銃を使ったのか?
おそらく高杉晋作が拳銃を贈ったのは、坂本龍馬が明智光秀の子孫だと信じていてのことであり、龍馬が拳銃を使えば周囲の人々もこう思ったのではないでしょうか?
――さすが鉄砲の名人・明智光秀の子孫だ。拳銃がよく似合う!
というのは歴史ロマンが過ぎますかね……。
さて、次回は「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」(朝倉義景、永平寺参詣の事。付、城地の事)です。
お楽しみに~(^^)/~~~
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文:戦国未来
※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです
※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください