お牧の方(光秀の母)

絵・小久ヒロ

明智家

光秀の母・お牧の方って何者? 若狭武田氏の出身というのは本当か?

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そもそも光秀の母は別の人物?

さて、ここまでは「系図の信ぴょう性はともかく、一応お牧の方が光秀の母親」という前提で記事を書いてきました。

がしかし、他の系図を参照すると、別の女性を光秀の母としている史料に出会います。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』です。

同書によると、光秀の父は進士信周(しんじのぶちか)という幕府奉公衆の人物で、母の正体は、通説で光秀の父とされている明智光綱、その妹だというのです。

お牧の方が若狭武田氏の出身であるということは、この「光綱妹」なる女性とは別人ということになります。

ちなみに同史料では、40歳を過ぎても子宝に恵まれなかった光綱に対し、彼の父である明智光継が「光秀を光綱の養子として定め、明智家を継がせた」と説明されています。

幕府奉公衆と土岐明智氏の関係が深いというのは一定の信ぴょう性があるので、個人的にはこちらの出自もアリではないか?とも感じます。

ただし、大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場人物の一覧にはお牧の名前がクレジットされていました。

いわゆる歴史ものの創作でこちらの説が採用されることはほとんどないのではないかと思います。

 

光秀によって人質に出されたが、信長の判断で殺害された?

お牧の方の生涯は不明ながら『総見記』という史料に有名なエピソードが一つ掲載されております。

それは明智光秀が丹波の攻略を織田信長に命じられ、八上城を攻撃していた際のこと。

波多野秀治ら波多野三兄弟が籠る八上城を開城させるため、光秀は次のように提案しました。

「開城してくれれば三兄弟の身の安全は保証しよう。私の意思を証明するために、母(お牧の方)を人質にする」

この言葉を信用した三兄弟は程なくして投降します。

しかし、光秀の意思とは裏腹に、信長は安土で彼らの処刑を命じるのです。

約束を違えられたことに激怒した波多野遺臣らは即座にお牧の方を殺害。最後の抵抗として城外に繰り出し、ことごとく討ち死にした――。

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自身の母を人質にしているということは、当然信長の耳にも入っていたハズ。

にもかかわらず無慈悲な処刑を敢行した信長を恨み、光秀が【本能寺の変】を引き起こした一因になったと「怨恨説」の裏付けとして説明されることも多い出来事です。

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内容だけを読めば「やっぱり信長は冷酷な魔王だったのか……光秀かわいそう……」と心底同情してしまいたくなりますし、本能寺の変の動機としては十分なようにも思えます。

しかし、そもそも論として「このエピソードは本当なのか?」という点を検証しなければなりません。

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