『明智軍記』第5話と第6話は、明智光秀が病気を治すため、山代温泉にでかけた話。
湯治にかこつけた北陸紀行の記録になります。
このとき光秀はいかなる道を通ったのか?
実は私も現地を訪れ、そのルートを歩んだのですが、そこで光秀に縁のある「漢詩碑」を発見!
ガイドブックにも掲載されておらず、地元住民にもほとんど知られておらず、さらには福井県が設置した案内板「明智光秀ゆかりの地」にも記されない――心密かに『これはスクープなんでは……』と胸踊らせております。
一体なんのことか?
『明智軍記』に記された光秀の山代温泉紀行を追っかけながら、気になる漢詩碑について見て参りましょう。
お好きな項目に飛べる目次
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称念寺の住職らと共に山代温泉へ
光秀が山代温泉へ出かけるキッカケとなったのは「小瘡(しょうそう・こがさ)」という病でした。
「小瘡」は小さい出来物、皮膚に出来る赤色の発疹、汗疹(あせも)であって、皮膚病ですから、特に痛みも熱も無い様子。
要は、気分転換の観光旅行に出かけたんですね。
どうせなら家族と行けばいいのに、称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎)の住職・薗阿上人らを誘い、今回の第5話は山代温泉へ行くまでの「往路の話」になります。
第6話は、山代温泉での話になるのですが、重大な事件が発生して、急いで一乗谷に帰ったところで終了。
同時に第1巻も終了します。
余計なお世話ですが、どうせ山代温泉まで行くのでしたら、さらにその奥の山中温泉を目指せばいいのに……。
山中温泉は、効き目が有馬温泉に次ぐとされ、蓮如も湯治のために滞在したところです。
山代温泉へは何人で行ったのか?
詳細は不明ですが、文中に名前が登場するのは以下の5人です。
・明智光秀
・三宅(弥平次?)……光秀の家臣
・奥田(景綱?)……光秀の家臣
・薗阿上人(薗阿弥)……称念寺住職
・定阿弥……薗阿上人の伴僧
明智三人衆の明智光春と明智光忠はお留守番かな?
「三宅」という人物が登場します。
一説に「三宅弥平次という人物がいて、明智光秀の長女と結婚、明智光秀から明智姓を賜り『明智左馬助』と名を変えた」と言いますが、明智三人衆の明智光春と三宅弥平次が同一人物であるかどうかと考
堅苔崎と芭蕉
まずは旅程を確認しておきます。
◆5月9日:称念寺を発ち、三国湊や越前松島を見て、大湊神社の宮司家泊
↓
◆5月10日:北潟の御万燈、潮越の根あがり松と出雲神社(出雲大社の分社)を見て山代温泉へ
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◆5月19日:大事件発生!
↓
◆5月20日:一乗谷へ帰る
出発地の称念寺から、まずは三国湊へ──どうやって行ったかは定かではありません。
おそらく、川を船で下ったのでしょう。
称念寺は水運業を営んでいたそうです。
三国湊(福井県坂井市三国町)は、同エリアの大河・九頭竜川が日本海に注ぐ河口の右岸に発達した港町です。
九頭竜川は、上流部分を「鳴鹿川」、下流を「高屋川」「三国川」とも言いますね。
「三国節」に
〽帯の幅ほどある街を
とあるように、九頭竜川沿いに細長く、約1.5kmほどの町家が軒を連ねています。
三国町の観光地と言ったら、やはり東尋坊と雄島でしょう。
『明智軍記』には「堅苔崎」と「御島」が登場。
「御島(をしま)」はおそらく雄島のことで、「堅苔崎」については分かりません。
特産品を列挙した『越前往来』には「米脇の若和布・黒苔」とあり、三国町米ヶ脇の地元民が「かっさき」(堅崎?)と呼んでいる崎が「堅苔崎」であろうと推測されています。
『越前往来』には、他に「高屋の鮭」など、越前国の特産物として、鯛、鮑、蟹も載せられています。
普段は禁欲生活をしている僧侶が、旅の開放感にはしゃぎ、堅苔(堅海苔・紅藻類ムカデノリ科の海藻)、黒苔(黒海苔・紅藻類ウシケノリ科の海藻)、若和布をとっているのを見て、明智光秀もこう茶化しております。
「某は、鯛、鮑、大蟹、三国川の鮭、鱒をこそ求むべけれ」
(私ならもっと高級品をとるよ)
私なら綺麗な貝殻でも探しますね(←乙女じゃん)。
西行が敦賀で見つけた「ますほの子貝」(チドリマスオガイ・千鳥真蘇枋)とか、松尾芭蕉の句が思い出されます。
「衣着て小貝拾はん種の月」
「西行法師が着ていたような墨染めの衣(法衣)を着て、小貝を拾おう、種の浜(敦賀市色浜)の月」
松尾芭蕉は、貧乏ながらに精一杯もてなしてくれる等栽(洞哉・とうさい)の妻に「むかし物がたりにこそかかる風情は侍れ」と明智光秀の妻の姿を重ねました。
芭蕉が2泊した等栽の家があった場所は、橋本左内の銅像がある左内公園(福井県福井市左内町)の一角の「芭蕉宿泊地 洞哉宅跡」碑の場所です。
雄島に明智光秀の漢詩碑が!
さて『越前往来』に「雄島の茱萸、瓜割清水」とあります。
「瓜割清水」は、「瓜を入れると割れてしまうほど冷たい水」で、福井県各地に湧き出ています。
雄島の瓜割清水は、現在は「瓜割の水」と呼ばれていますが、『明智物語』には「精水」とあります。
ちなみに一乗谷の瓜割清水は「朝倉氏の御前水」と呼ばれています。
「御島」について『明智物語』には次のようにあります。
※原文は記事末に掲載
【意訳】
あちこち遊覧して後、舟に乗って「雄島」(福井県坂井市三国町安島)へ渡り、「大湊神社」に参拝した。
雄島は、地元民が「神の島」と呼ぶだけあって神々しい雰囲気の島で、緋色のしめ縄が架けられ、海岸の岩は東尋坊の柱状節理のように立ち、下方を波が洗っている。
昔、この雄島にモックリコックリという巨大魚(クジラ?)が攻めてきたという。
史実は「蒙古、高句麗が船に乗って攻めてきた」のだという。
この時、ご祭神・三保大明神が退治された。
そう聞かされると、兀良拾(モンゴル人)の国が微かに見える気がした。(←無理ですって^^;)
雄島の美しさを、絵には描けても、言葉にするのは難しいが、明智光秀は「仙人が住む島(渤海に浮かぶ蓬莱、方丈、瀛洲)に来たようだ」と漢詩を詠み、薗阿上人は「これが見納めか」と和歌にした。
雄島へは、現在は橋が架けられています。
行ってみると「日本のガラパゴス」とは言い過ぎでしょうが、周囲とは明らかに雰囲気、植生(ヤブニッケイの純緑広葉樹林)が異なります。
方位磁石も狂ってしまうようで、「越前最大のパワースポット」と呼ばれています。
雄島には、式内・大湊神社(福井県坂井郡三国町安島)があります。
式内・大湊神社に式内・楊瀬神社を合祀した神社です。
「大湊神社」については、福井県神社庁の公式サイトで詳しく解説されています。
その解説(由緒)によると、源義経が平泉へ落ち延びる際に立ち寄って家臣の兜を奉納したり、朝倉義景が訪れて朝倉一門の祈願所に定めたりしたそうです。
「文治2年(1186)の秋、源義経が主従と共に奥州へ下降に際し当地に止宿して参拝し家臣亀井六郎重清の兜一領を奉納し一門の武運と海上安全を祈願した」
「永禄年間(1558~)朝倉義景は一門の祈願所に定めて参拝し社領を加増した」
【参照】福井県神社庁「大湊神社」
朝倉義景の参拝は、永禄4年(1561年)4月8日の「犬追物」の翌9日のことです。
それよりも最大の注目はやはり【明智光秀の漢詩碑】でしょう!
明智光秀の漢詩の意味は「大湊神社」公式サイトにこうあります。
「神様がいるような雰囲気の島の神社の雅な趣きにさそわれて、私は小舟にさおさして立派な仙宮に参ることができました。
ここに参れば昔いわれた神様や仙人が住んでいられると伝えられる蓬莱瀛洲の地を尋ねる必要もないだろう。
なぜなら捜しに行っても万里の雲路も遥かに遠く、海も浪が高いから」
【参照】「大湊神社」公式サイト
漢詩碑は、幕末の天保3年(1832年)に田中重教が建立。
よく「明智光秀の供養碑を建てると割れる」と言われますが、この漢詩碑も割れました。
和歌も彫られていたそうで、数十年前には数文字読めたようです。
残念ながら今は1文字も読めません。
これが本当に本当に残念。最初の1文字だけ読めれば、歴史が変わるかも知れません。
なぜ1文字で歴史が変わるのか、その理由を書くと長くなるので、第12話「義昭公濃州御移事」で詳しく記します。
なお、この石碑には【明智光秀】ではなく【源光秀】としてその名は刻まれております。
明智家は土岐家の分家。
その土岐家はもともと源頼光の子孫であり、源光衡が土岐光衡と名乗ったことに始まりますから(異説あり)、明智光秀が源光秀と名乗っても不思議ではありません。
後世、この石碑が建てられた当時は、まだ謀反人の「明智」と彫ることが憚れたのでしょう。
しかし「源光秀」と記しておけば、明智光秀だと分からない人もいます。
誰かが見ても「ここは源義経が兜を納めた神社だから『源光秀』は源義経の縁者かな」と考える可能性は低くない。
上手い隠し方です。
大湊神社の宮司家に宿泊
明智光秀一行は、御島明神(大湊神社)の宮司・祝部冶部大輔の屋敷に泊まりました。
そこで行われたのは連歌の会。
普通は一晩かけて行うのですが、連歌の達人である明智光秀と薗阿上人が2人だけであっという間に100韻詠んでしまったので、「もう1度」と今度は従者を入れて行ったそうです。
三国湊を代表する豪商は森田家と内田家です。
が、当時は森田家のみ。
豪商・内田氏が三国に来たのは元禄16年(1703年)のことで、東尋坊の近くには内田惣右衛門記念館があります。
連歌の会を催していると、豪商・森田氏ではなく「此の浦の船人・刀袮」がやってきて、
「蝦夷人と干物を売買してきた」
と言いました。
これは興味深い記述ですよね。
蝦夷人とは、おそらくアイヌ人。
北海道と日本海側の各港では古くから交易が行われており、北陸では昆布消費量が非常に多いエリアもあるほどです。
私がその場にいたら「蝦夷ってどんな場所?」「蝦夷人ってどんな人?」と質問攻めしていたところですが、明智光秀は、航路(江戸時代の北前船の航路=西廻り航路)と寄港地(「道南十二館」については触れていません)を尋ねました。
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戦国大名に会うこと30名 光秀の諸国勘合はやっぱりウソ?明智軍記第3話後編
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返ってきたこたえはざっと次の通りです。
【大船が400~500艘が優に係留できる湊】
・越前国(福井県北部):大丹生(福井市大丹生町)、吉崎(あわら市吉崎)
・加賀国(石川県南部):安宅(小松市安宅町)、本吉(白山市美川本吉町)、宮腰(金沢市金石)
・若狭国(福井県南部):高浜八穴(大飯郡高浜町事代)
【越前国から蝦夷までの湊】
・越前国
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寅(東北東)へ海路30里(120km)
↓
・能登国(石川県北部)福浦湊(羽咋郡志賀町福浦港)
↓
海路18里(71km)
↓
・能登国和嶋湊(輪島市)
↓
海路7里(27km)
↓
・能登国珠洲(すず)崎塩津湊(珠洲市三崎町)
↓
海路45里(177km)
↓
・佐渡国(新潟県の佐渡島)小木湊(佐渡市小木町)
↓
海路25里(98km)
↓
・佐渡国鷲崎湊(佐渡市鷲崎)
↓
海路18里(71km)
↓
・越後国(佐渡島以外の新潟県)新潟湊(新潟市)
↓
海路25里(98km)
↓
・出羽国(山形県&秋田県)青嶋(粟島)湊(離島。新潟県岩船郡粟島浦村)
↓
海路30里(118km)
↓
・出羽国止嶋(飛島)湊(山形県酒田市の離島・飛島)
↓
海路20里(79km)
↓
・出羽国酒田湊(山形県酒田市)
↓
海路30里(118km)
↓
・出羽国秋田湊(秋田県秋田市)
↓
海路18里(71km)
↓
・奥州霧山(秋田県能代市檜山)の渡鹿(戸賀)湊(秋田県男鹿市戸賀)
↓
海路18里(71km)
↓
・奥州野代(能代)湊(秋田県能代市)
↓
海路35里(137km)
↓
・奥州津軽(青森県西部)の深浦湊(青森県西津軽郡深浦町)
↓
海路18里(71km)
↓
・奥州鯵个沢(鯵ヶ沢)湊(青森県西津軽郡鯵ヶ沢町)
↓
海路8里(31km)
↓
・奥州十三(とさ)湊(青森県五所川原市十三湊)
↓
海路7里(27km)
↓
・奥州小泊湊(青森県北津軽郡中泊町小泊)
↓
北へ海路8里(31km)
↓
・松前(北海道松前郡松前町):ここから北が蝦夷
※三国港から370里(1453km)の距離で、天候等が順風満帆なら約10日間を要す
【越前国から下関までの湊】
・越前国三国湊(福井県坂井市三国町)
↓
海路25里(98km)
↓
・越前国敦賀津(福井県敦賀市)
↓
申(西南西)へ海路12里(47km)
↓
・若狭国小浜湊(京都府京丹後市網野町小浜)
↓
海路13里(51km)
↓
・丹後国(京都府北部)井祢(伊根)湊(京都府与謝郡伊根町)
↓
海路5里(20km)
↓
・丹後国経箇御崎(経ヶ岬)湊(京都府京丹後市丹後町袖志)
↓
海路18里(71km)
↓
・但馬国(兵庫県北部)丹生芝山(柴山)湊(美方郡香美町)
↓
海路7里(27km)
↓
・但馬国諸礒(諸寄)湊(美方郡新温泉町諸寄)
↓
海路22里(86km)
↓
・出雲国(島根県東部)三尾関(美保関)湊(松江市美保関町)
↓
海路18里(71km)
↓
・出雲国可賀(加賀)浦(松江市島根町)
↓
海路13里(51km)
↓
・出雲国宇竜(出雲市大社町宇龍)の於御崎(日御碕)湊(出雲市大社町日御碕)
↓
海路18里(71km)
↓
・石見国(島根県西部)湯(温泉)津(大田市温泉津町)
↓
海路18里(71km)
↓
・石見国絵津(江津)湊(江津市江津町)
↓
海路20里(79km)
↓
・長門国(山口県西部)仙崎湊(長門市仙崎)
↓
海路7里(27km)
↓
・長門国蚊宵(通)湊(長門市通)
↓
海路25里(98km)
↓
・長門国下関(赤間関、赤馬関、馬関)湊(山口県下関市)
佐渡国の2港は、江戸時代の開港で、どうも江戸時代のラインナップのようです。
これは『明智軍記』以後の成立の『越前鹿子』の記述内容と同じ。
『越前鹿子』が『明智軍記』を読んで写したか、両者に共通のネタ本があったのかは不明です。
ちなみに室町時代の「日本の十大港湾都市」といえば、日本最古の海洋法規集『廻船式目』掲載の「三津七湊」ですね。
【三津】
・安濃津:伊勢国安濃郡(三重県津市)
・博多津:筑前国那珂郡(福岡県福岡市)
・堺津:摂津国(住吉郡)と和泉国(大鳥郡)の国境(大阪府堺市)
【七湊】
・三国湊:越前国坂井郡(福井県坂井市)=九頭竜川の河口
・本吉湊(美川港):加賀国の石川郡と能美郡の郡境(石川県白山市)=手取川の河口
・輪島湊:能登国鳳至郡(石川県輪島市)=河原田川の河口
・岩瀬湊:越中国上新川郡(富山県富山市)=神通川の河口
・今町湊(直江津):越後国中頸城郡(新潟県上越市)=関川の河口
・土崎湊(秋田湊):出羽国秋田郡(秋田県秋田市)=雄物川の河口
・十三湊:陸奥(津軽)国(青森県五所川原市)=岩木川の河口
※「津」:人が集まる場所。主に渡河船の船着場。
※「湊」:水門(みと)。河口。他に「津々浦々」の「浦」や「泊」(とまり・風待ちの船が停泊する水域)がある。
しっかり「三国湊」が入っていますヽ(^o^)丿
そして航路や港の話に感心した明智光秀は、お礼に酒や食事を振る舞い、時服(季節に合わせて着る服)などを贈りました。
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