足利義輝/wikipediaより引用

足利家

足利義輝の壮絶過ぎる散り際! 剣豪レベルまで剣術を磨いた室町将軍

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永禄元年(1558年)11月27日、室町幕府13代将軍・足利義輝(よしてる)が帰京しました。

「室町幕府は京都にあったはずなのに、何で帰京?」
と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。

ここまでの事情から見てみましょう。

 

おうちに帰れなくなった将軍さま

大きなカギは応仁の乱です。
足利将軍は尊氏から始まって義昭までの15人。

しかし、応仁の乱で将軍の権威もへったくれもなくなったのが8代の義政のときです。

ということは、250年続いたといってもほぼ半分以上の将軍がお飾り状態だったということになりますよね。

もちろん皆ボケっとしていたわけではなく、何とか実も伴った将軍になろうと努力していたのですがことごとく失敗しています。
元が将軍の跡取り問題の飛び火ですから、自業自得なんですけども。

今回の主役、義輝のお父さんである12代・足利義晴も将軍復権に力を注ぎました。
が、この人は先々のことを見通す力が足りなかったようで、京と近江(滋賀県)を行ったりきたりしながらしょっちゅう戦をしてしまいました。

相手は管領(幕府のナンバー2)の細川家で、どっちが京や朝廷を手中に収めるかでてんやわんや。

ますます京は荒れていくわ、出たり引っ込んだりで将軍のくせに威厳のカケラもないわ、そもそも義晴の前の義稙(よしたね)が後柏原天皇の即位式に出損ねていた後遺症を受けるわ。
足利家自体が散々な有様でした。

自ら戦に出たり勇猛な人ではあったようですが、そのツケが息子である義輝にもまわってしまいます。

 

塚原卜伝も認める本物の剣豪将軍に

義輝が将軍職についたのは天文十五年(1546年)、11歳のときのこと。

しかし、父親が上記の通りモグラ叩きのモグラよろしく京に出たり入ったりしていたため、このときは近江にいました。

お父さんが亡くなった後は何とか京に戻ろうと画策します。

一度、天文二十一年(1552年)に細川家や三好家と和睦を結び、京に入ることはできたものの、実態は傀儡のお人形さん。
再び戦になり、またも近江へ逃れます。

こうした災難の連続に、自身を鍛え上げねば――と思ったのか、あるいはもともと才能があったのか。

逐電中の義輝は、ひたすら武芸に励みました。
当時の剣豪・塚原卜伝から免許皆伝を受け、一説には上泉信綱にも剣を教わったそうです。

 

三好と和睦し結婚も済ませ

義輝のウルトラCはここからです。
そのまま返す刀で戦を仕掛けるかと思いきや、なんと三好家と和睦を結んでしまいます。

それというのも、近江で頼りにしていた六角家が
「将軍様も三好殿も、そろそろ平和的に解決したほうがよろしいかと」
なんて間に入ってくれたから。

後世からすれば「なら早くやれよ」とツッコミたくなるものの、六角家も家格はあるものの戦にはさほど強くなかったため、タイミングを計りかねていたのでしょうね。

こうして義輝がやっと京に落ち着いたのが永禄元年。
まだまだ三好家の勢力は強いものの、義輝は父祖以来の悲願を達成すべく、バリバリ働きます。

まずは後回しにしていた正室。
この頃義輝は23歳ですから、当時の基準としてはやや晩婚です。

摂関家の一つ・近衛家から正室を迎えることができ、まずは朝廷とのパイプを持つことに成功します。
当主・稙家(たねいえ)が義輝の母方の伯父さんで、近江と京を(ry)の間も随行してくれていたためスムーズに話が進んだようです。

 

剣術も、謀略、調略にも勤しむが

三好家への対処も怠りません。
機をうかがっては刺客を何度も差し向けるなど、戦を避けつつ当主・長慶を取り除こうとしていたようです。

三好長慶自身は刃にかからなかったものの、後々周辺の者がバタバタ死んでいるので、黒幕は別にいたのかもしれませんが。

また、各地の大名とも積極的に手紙をやり取りしたり、名前から一字を与えたり、戦の調停をしたりと抜け目がありません。
義輝の初名は「義藤」なのですが、この頃から合わせると一字貰った大名は数えるのが面倒になるほどいます。

その中には細川藤孝や島津義久、上杉輝虎(後の謙信)、伊達輝宗(政宗のお父さん)、毛利輝元など、後々名前が出てくる人もたくさん。
名前は関係ないですが、織田信長のお父ちゃん・織田信秀も、義輝には拝謁しているほどです。

もらう価値がなければ字を受け取りませんから、義輝がどれだけ将軍の権威回復に力を注いだかがわかりますね。

そしてその最期は「壮絶!」の一言に尽きるものでした。

 

三好勢に囲まれ襲いかかる敵を次々に打ち倒す

三好義継らによって囲まれた義輝は、剣豪レベルにまで鍛えまくった剣術を活かし、襲いかかってきた敵兵を次々に自らの刀で斬り倒していったのです。

刀は、人を斬ると、血や脂がつき、切れ味が悪くなります。
そこで義輝は、自身の周囲に予備の刀をぶっ刺しておき、敵を斬って倒して切れ味が悪くなっては、また新たな刀を握りしめ、いよいよ困った松永軍は「畳を持って四方から寄せ」て、この強すぎる剣豪将軍を討ち取りました。

さすがに後世の脚色が入ってる可能性は否めませんが、それでも一体何人倒したんだ!

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【参考】
国史大辞典
足利義輝/wikipedia

 



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