足利義稙木像/wikipediaより引用

足利家

10代将軍・足利義稙は京都を出たり入ったり 一体何をした将軍なんだ?

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復帰できるも求心力は著しく低下

「今こそ好機!」
これを伝え聞いた大内義興はすぐさま動きました。

「将軍様のお通りだ! 簒奪者の義澄とその取り巻きは京都を明け渡せ!」
と迫り、半年ほどで足利義澄と細川澄元を追い出すことに成功します。

足利義澄/wikipediaより引用

このとき細川政元の養子の一人・細川高国は足利義稙たちに協力。
その報償として管領の座と、細川氏の当主として認める旨を受けております。

かくして、どうにか京都を奪回し、将軍としての再スタートを切った義稙です。
しかし、こういった経緯があったものですから、やはり彼自身に権威や力はほとんどなく、その後は義興と高国が実権を握ることになりました。

「将軍は飾り物で、実質的なトップはその側近」
という構図は、義政の時代から何も変わらなかったのです。

義稙は自分も腕が立つ方で、義澄からの刺客を返り討ちにしたという話があるほど。
相当悔しかったでしょう。

そして足利義稙は、義興や高国の影響を排除するため、近江甲賀へ隠遁という名の家出をします。
ここで義稙が大病を得たこともあって、一度は義興たちが譲歩し、「将軍の命令に従います」という誓書が出されました。

再度、帰京を果たすものの、そこに待っていたのは細川氏の争いでした。

 

義稙と高国の関係も悪化 自ら墓穴を掘ってしまう

細川高国は、もう一人の政元の養子である細川澄元との戦いをまだ続けていました。

この頃は高国が管領でしたから、幕府のトップである義稙は当然、高国の味方をして然るべきところ。
当初はそうだったのですが、高国が敗れ、「上様、私と共に近江へ逃げましょう」と言われたときには拒否しています。

澄元から義稙のもとへ「私は(どっかの面の皮が厚いヤツと違って)上様に従います(だから私に味方してください)」というような書状が届いていたからです。

義稙としては、これまで頭を押さえつけてきた高国の態度が変わることを期待するよりも、澄元の誠意を信じたくなりますよね。

……なんだか”ダメ亭主の本性が見抜けず結婚してしまい「子供ができたらマシになってくれると思ったのに!」と悩む奥様”のようです。
昼ドラよりドロドロしてますけど。

このため、義稙と高国の関係も一気に悪化。
義稙は自ら墓穴を掘ってしまいます。

高国の影響力から逃れようとして、なんと、再び京都から出ていってしまうのです。もう、アホかと。

周囲からすれば「ワガママをしたいばかりに、家臣を捨てていった」としか思えません。
しかもこれが、ときの帝である後柏原天皇の即位式直前だったというのですから、政治的には「やっちまった」どころではない話でした。

 

後柏原天皇にキレられ

この時代、皇室の権威とお財布事情は地に落ち、諸々の儀式も満足にできなくなりかけていました。

後柏原天皇も、践祚(実際に帝位を受け継ぐこと)から即位式(践祚したことを大々的に知らせる儀式)まで、実に20年以上の歳月を経ています。

ここまで待たされた上に、将軍出奔という
「(゚Д゚)ハァ?」
なトラブルで即位式ができなくなるなど言語道断。

後柏原天皇は「もうあんなお飾りいらん! 高国、お前が采配して即位式をやるぞ!」と命じました。

高国はもちろん従います。
そして、義澄の息子・足利義晴を新しい将軍として認めてもらうよう、後柏原天皇に奏上。
当然、あっさり認められます。

後柏原天皇は仏教への信仰がとても厚い方で、貧困にあえぐ民を思いやる和歌を詠んだり、疱瘡が流行したときには延暦寺と仁和寺にご宸筆の般若心経を奉納したりしていました。

流行り病はいつの時代でもあることですけれども、民の貧困の大元は言わずもがな、応仁の乱です。

しかもその理由は幕府と武士を総括すべき室町幕府の将軍家ですから、度重なる将軍の失策・失態に対し、後柏原天皇が激怒するのは当たり前でした。

この時点で足利氏から将軍世襲の権利を取り上げてもいいくらいですが、流石にそれはためらわれたのでしょうね。
まぁ、逆上して武力行使されてもたまりませんしね。

夢破れて阿波と散る

懲りない義稙は、それでも高国に対抗するための兵を集めようとして、夢叶わず阿波で亡くなります。

享年58。

当時としてはかなり長生きですね。
まぁ、その年齢で、将軍位を再び廃されていたことに知づけんかあったはずないのですが……。

なお、彼の跡は、養子の足利義冬(義維)が継いでいます。
正式な将軍にはなりませんでしたが、平島公方とも呼ばれました。またナントカ公方ですがテストには出てこないでしょう。

義冬は義澄の息子なので、義稙は政敵の息子を跡継ぎにしたことになります。
これは、義冬が義澄の嫡男・義晴と対立関係にあったことと、阿波の守護・細川之持の下で育ったことが理由のようです。

そろそろ「義」の字がゲシュタルト崩壊しそうです。
続きはまた次回。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「足利義稙」
足利義稙/wikipedia

 



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