足利義晴/wikipediaより引用

足利家

足利義晴(室町幕府12代将軍)40年の生涯は京と近江を行ったり来たり

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室町幕府の将軍は、ほとんどが無名です。

目立った功績や争いがない――というのが主な理由で、名の知れた将軍と言えば以下の4名ぐらい。

1代・足利尊氏
3代・足利義満
8代・足利義政
15代・足利義昭

ここで問題なのは……。
彼らだけを学んでも、全体像を把握するのが難しいということです。

実際、皆さんの記憶における室町時代って、なんとな~くボヤけた印象になってません?

それは数少ない有名将軍をつまみ食いしているから。特にこの時代は、前の世代で火種となったものが爆発しているケースが多く、歴史で一番重要な【流れ】を無視しがちとなっています。

例えば、足利尊氏の時代に起きた南北朝問題
これは鎌倉時代末期の皇室事情(平たくいえば後嵯峨天皇のワガママ)が原因でした。

また、足利義政がグレて仕事をしなくなり【応仁の乱】へと至るのは、父である六代将軍・足利義教が暗殺され、息子の七代将軍・足利義勝と義政に満足な教育ができなかったことが遠因となっています。

そしてラストエンペラーの十五代将軍・足利義昭なんて悲惨です。
いきなり流浪の身になったり、織田信長に追い出されて幕府そのものが\(^o^)/オワタ状態になったり。

どうして義昭こうなった?
というのは、父ちゃんである十二代将軍・足利義晴に原因がありました。

今回は、義晴と共に室町幕府の後半を見てみましょう。

 

父・義澄が近江の六角氏に身を寄せていた頃に誕生

足利義晴は、父である十一代将軍・足利義澄が、近江の六角氏に身を寄せていた頃に生まれました。
十代将軍・足利義稙の上洛による戦火を避けるため、京都から避難していたんですね。

もう、この時点でややこしいです。
義稙とか義澄の影響があるのですから。

彼らも合わせてシッカリ押さえておきたい方は、以下の記事をご覧いただければ幸いです。

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なお、義晴が生まれて5ヶ月程で義澄は亡くなっており、親子の会話はほとんどなかったと思われます。

逃亡先で子作りに励めたのも、本能的な欲求だったのかもしれませんね。
子孫を残すのも為政者の義務であり、むしろこの時点まで子供がいなかったことのほうが当時は問題視されたことでしょう……。

 

幼い頃は播磨守護・赤松義村のもとで

幼い義晴は、義澄派の重臣である播磨守護・赤松義村(よしむら)のもとで育ちました。

幸い、永正十年(1513年)2月には、義澄派と義稙派の和睦が成立し、義稙が再度将軍になることで合意。
幼すぎる義晴を将軍にしたところでお飾り状態は明白ですから、成人している義稙が将軍に返り咲くほうがいい……という判断でしょうか。

しかし、いつの時代も決定事項に反する者はいます。

義晴の養父にあたる赤松義村はこれを不服とし、義晴を担ぎ上げて一戦しようとしました。

義村は備前守護代・浦上村宗に反攻するための神輿が欲しかったのです。
主筋の人間を巻き込むなよ……というのは今更の話ですね。

結局、義村は永正十八年(1521年)1月に敗れ、強制的に隠居させられます。
また、義晴も浦上村宗のもとへ身柄を移されてしまいました。

ゴネたせいで自分の立場も神輿の善晴も失うなんて、ほんと義村さん、カッコ悪いっす(´・ω・`)

もしも彼に
「義晴がもう少し大きくなるまで、養父としての力を強めることに専念する」
とか
「息子の代に幕府の中枢になれるよう地盤を整えておく」
とか、そういう発想ができれば、運命も大きく変わっていたことでしょう。

 

満10歳、またしても少年将軍の誕生となる

しかし、いざ将軍になった義稙も全く落ち着きのないものでした。

二ヶ月後、管領・細川高国と対立して京都を出奔し、直後に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったのです。
結果、高国が警固の職務を遂行することになりました。

すっかり義稙に愛想を尽かした高国は、義晴を新たな将軍にすげ替えようと考えます。そこで、かねてから親交のあった浦上村宗に連絡し、将軍代理として義晴を即位式に出席させることにしました。

義晴にとっては初めての上洛。
高国に歓待され、内裏にも上がって天皇へのご挨拶もすることができました。

すると、その様子が問題ないと判断されたのか、朝廷から正式に将軍補任の合意が出ます。

急ピッチで官位の授与や元服式が行われ、永正十八年の年末、義晴は正式に第十二代将軍に任じられました。

満10歳、またしても少年将軍の誕生です。

 

教育係は佐子局

悲しいかな、この年齢の義晴がすぐに実務を行うのは難しい……というのは、現代の我々から見ても明らか。

政治を行ったのは義澄派だった家臣たちとなります。

具体的には、細川高国や、政所執事(頭人)である伊勢貞忠、飯川国信や大舘常興などです。
義晴と共に播磨へ下っていた人もいたので、心強かったかもしれませんね。

細川高国/wikipediaより引用

一方で、播磨国に所領を持つ奉公衆の一人・三淵晴員の姉で大舘氏の養女ともされる佐子局(後に清光院)などが、義晴の教育を行いました。

この女性は、かな書きの書類発行などもしており、事務仕事もかなりデキる方だったようです。
彼女の生没年はわかっていませんが、義晴より一回り近く年長で、後に義晴の息子である義輝の教育係もしているので、かなりの長寿だったことがうかがえます。
義晴にとっては頼れる姉、あるいはばあやという存在だったのでしょう。

こうして幼い将軍を守り立てていく形になった室町幕府に、新たな戦乱が降りかかります。

大永六年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害したことがキッカケで、細川氏の内紛が始まってしまったのです。

理由は、
”「香西元盛が細川晴元に内通している」という讒言を、高国が信じたから”
だそうで……あのさぁ!

 

そして「京と近江の反復横跳び」が始まった

この動きを見て、高国と対立していた細川晴元(当時は六郎)は、三好元長の援助を受け義晴の弟・足利義維(あしかが よしつな)を擁立。
元盛の2人の兄・波多野稙通や柳本賢治も高国から離反という具合で、芋づる式に敵が増えていきました。

そして大永七年(1527年)2月に起きた【桂川原の戦い】で高国が敗北すると、三好元長や細川晴元らが入京し実権を握ります。

このまま京にいれば、身に危険が!

義晴は、高国らと共に近江に逃れました。
この件について義晴には責任がなく、晴元と義晴の間で交渉が行われ、数ヶ月で帰京していますが……今回のような「京と近江の反復横跳び」は生涯大部分を占めることになります。

享禄元年(1528年)にも義晴は、近江の朽木稙綱を頼って同地へ逃げました。
そして若狭の武田元光らを味方につけ、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立します。

こうした状況を受けて義晴から義維へ寝返った幕臣もいました。

ただ、奉公衆・奉行衆・女房衆・昵懇公家衆など、将軍の身辺に仕える人々は義晴に従い続けたのが救いだったでしょう。

このとき義晴、17歳。
古い付き合いの人々とは、擬似的に親子のような感情があったのかもしれません。

 

もう近江に幕府を移せばいいじゃない

朝廷からの心証も悪くなかった義晴は、享禄三年(1530年)に権大納言へ昇進します。
地方大名との関係も維持していたため、実際に派兵などは行わなくとも、世間的に「正しいのは義晴」とみなされていたのかもしれません。

一方、高国は高国で、味方してくれる大名を探したり、実際に軍を動かして対抗したりしていました。

が、晴元を討つべく堺へ出陣した細川高国は、その手前で晴元方の兵に阻まれて敗北。
そのまま自害に追い込まれます。

敵対していた二人のうち一方が命を落としたのですから、普通はここで話が収束しますよね。

ところがどっこい、まだまだ続きます。
今度は義維派の細川晴元と三好元長が対立しはじめたのです。

「お前らは敵を作り続けないと死ぬ病気にでもかかってるの?」……とツッコミたくなってきます(´・ω・`)

天文元年(1532年)、晴元と手を組んだ一向一揆によって三好元長は討たれます。
これを避けるため、義晴はまた近江に逃れなければなりませんでした(四年ぶり三回め)。

今度も前回と同じく奉公衆・奉行衆を含め、幕府の中枢人物を軒並み引き連れていっていいます。

「もう京都に戻るのやめて、近江に幕府を移せばいいんじゃ……」と思ってしまいますが、義晴はこの移転の後も京都の公家たちと連絡を取り続け、桑実寺の縁起絵巻作成や改元を提案する武家執奏&儀式の費用献上などをしています。

「朝廷を味方につけておけば、俺たちの正当性を保てる」と考えたのでしょうね。
義稙が京都を捨てて朝廷の信頼を失ったことが、この状況の原因でもありますし。

 

帰京が決まり、結婚も済ませ、子宝にも恵まれる

義晴がそうした態度を取ったためか。
義維派の大名や公家はほとんど増えず、義晴と和解を唱える者もいました。

また義維は、細川晴元が京都の実権を握った後も治安の悪化によって上洛できず、将軍宣下を受けるどころか朝廷に接近することもできない状態が続きます。
政治的には義晴のほうが有利な位置にいた、と考えていいでしょう。

そして天文三年(1534年)、義晴は六角定頼・義賢父子の後ろ盾を得て細川晴元と和解し、9月に帰京します。
直前には、近衛尚通の末娘(慶寿院)との結婚も済ませておりました。

尚通の正室の実家である徳大寺家と細川高国が縁戚関係にあったため、高国の仲介で婚約が成立したようです。

従来、足利将軍の正室は日野氏から迎えられてきましたが、慶寿院は、初めて摂関家から輿入れしています。
義晴は生母が不明(=母の身分が低い)とされており、母方の後ろ盾がなかったため、公家(摂関家)の力も利用したかったようです。

そして、この妻が、将軍の御台所としては日野富子以来となる男子(しかも三人)をもうけたことは、義晴にとって大きな後ろ盾となりました。
なんせ実の兄弟ですら誰かが担ぎ上げてきて敵になるので、後継者の確保は早ければ早いほど良かったのです。夫婦間において「子はかすがい」といいますが、家同士の場合もあてはまるんですね。

この時期の足利家と近衛家との関係は比較的良好でした。

特に、義晴から見て義兄の近衛稙家は、正式な武家伝奏にはなっていないものの、幕府と朝廷間、及び諸大名と幕府間のパイプ役を務めるほど
余談ですが、稙家の息子が織田信長のマブダチ・近衛前久です。

そろそろ戦国末期に繋がるポイントが出てくるようになるので、覚えておくとより楽しめますね。

 

息子の菊幢丸に将軍職を継承させようと

義晴は体調を崩し、天文三年の前半にはほとんど政務をしておりません。

本人も健康上の不安を感じていたのか。
天文五年(1536年)8月には、嫡男・菊幢丸(きくどうまる・後の13代将軍足利義輝に将軍職を譲る意向を示し、その後見として八名の「年寄衆」を指名しました。
このときは義晴が回復したため、将軍職継承は行われませんでしたが、年寄衆は後に「内談衆」と名を変え、義晴を支えていくことになります。

行き当たりばったりな印象の強い室町幕府将軍の中で、義晴は、かなり後のこと(自分の死後)も考えているという気がしますね。

天文四年(1535年)には、長年、仮名の「六郎」だった細川晴元が、義晴の偏を受けて改名します。
偏諱を受けることは臣下になるという意思表示みたいなもの。
晴元はこの時点で義晴に従う姿勢を見せたともいえます。

さらに、その二年後に晴元は六角定頼の猶子(実父は三条公頼)を妻に迎えました。
当時、京都に出仕していた大名は晴元と同族の細川元常しかおらず、彼らと近江の六角定頼を加えた3人と義晴の協調の下、幕府は一時的な安定を迎えることになります。

しかし、それで収まらないのが室町時代です。
ここから先は、義晴の弟・義維を推していた勢力内での対立が絡んできます。

 

敵の敵は一時味方でやっぱり敵となる

天文十年(1541年)10月。
義維派だった細川晴元と、畠山氏の重臣・木沢長政が対立しはじめました。

この畠山氏は、応仁の乱の一因となった軍事衝突「御霊合戦」(上御霊神社の戦い)を起こした家。
そんな主を見限った長政は、主家の実権を握りつつ、細川晴元に接近していました。

そして晴元と長政は、細川高国を滅ぼすまでは協調していたのです……が、こういう結びつきは共通の敵がいなくなると破綻しやすいものです。
テンプレ通り、彼らの関係も決壊。新たな戦が始まったのです。そして……。
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