足利義晴/wikipediaより引用

足利家

足利義晴(室町幕府12代将軍)40年の生涯は京と近江を行ったり来たり

木沢長政は一向一揆を味方につけながらも、これを制御しきれません。

一揆のメンバーは興福寺をはじめとした他宗派との衝突(物理)を起こしまくったため、義晴や晴元から、長政に対して
「お前のオトモダチなんだからお前が始末をつけろ!」(超訳)
という命令が出されます。

長政はこれを受け、今度は日蓮宗徒を味方につけて一向一揆を鎮めたまでは良かったのですが、その後は日蓮宗徒が邪魔になって始末しようとします。

むろん、日蓮宗徒もタダで利用されて引き下がる訳にはいきません。

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しかもこれだけ引っかき回した当人の長政は、素知らぬ顔で畠山氏を牛耳り続けるのですからどうしようもない。
絶対ロクな死に方しないやつですよ。

 

やむを得ず畠山政国に味方を

将軍である義晴には、晴元と長政の両方から支援要請が届いていました。
どちらに味方するのか。
しばらく悩みましたが、最終的には晴元を選びます。

そのため、天文十一年(1542年)の【太平寺の戦い】で長政が敗れたとき、その首は近江坂本へ避難していた義晴に届けられました。
義晴は、その後も晴元支持の姿勢を保っています。

ところが、です。
天文十五年(1545年)に入って畠山政国が、晴元のライバル・細川氏綱方につき、晴元を京から締め出してしまいました。
晴元は丹波へ行ってしまい、義晴は慈照寺(銀閣寺)に移らざるを得なくなります。

更には、張本人の畠山政国から
「私と氏綱サンに協力してくださいよ^^」(意訳)
という要求が義晴に届いたため、その通りにしなければなりませんでした。
晴元が苦戦しており、なかなか京に戻る目処が立たなかったからです。

万が一、固辞していたら、
「じゃあアンタいらないから、ブッコロして他の足利氏のヒトを担ぎ上げるわ^^」
てなことになった可能性は高いでしょう。

そして状況はめまぐるしく動きます。

晴元の家臣が四国から兵を率いてやってくると、一気に晴元方が優勢になり、天文十六年(1547年)「舎利寺の戦い」で勝利を得るのです。
このとき大きな戦功を挙げたのが、三好長慶でした。

松永久秀の最初の主君であり、この後しばらく畿内の実権を握り、織田信長より先に天下人になった――とも称される方ですね。

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ついに息子の義輝を13代将軍に!

義晴は氏綱方の敗北を知り、またまた近江坂本へ逃れました。
ほんと、オリンピックみたいなスパンで京都と近江を往復しています。

そして、この頃になるとさすがに反復横跳び状態にケリを付けたくなってきたのか、一つ大きな行動を起こしています。

天文十五年(1545年)12月に嫡男・菊幢丸を元服させて「義藤」(後の13代将軍足利義輝・以下、義輝で統一)と名乗らせ、その翌日には足利義輝へ将軍職を譲っているのです。
将軍職を継承させるために元服させたと見て間違いないでしょう。

足利義輝/wikipediaより引用

これに関して、足利義晴の考えが見える出来事が二つ。

一つは、元服式の役目についてです。

室町幕府の将軍、あるいはその第一候補者が元服する際、烏帽子親は本人の父(現職の将軍)か、あるいひあ管領が務めることになっていました。
しかし義晴は、管領ではない六角定頼を管領代に任じ、義輝の烏帽子親にしています。

当時の管領である晴元が近江まで来られなかったことと、この時点で実質的な将軍家の庇護者が六角氏になっていたからと思われますが……これによって、義晴と細川晴元の関係が悪化。
さらには氏綱と晴元の舅・六角定頼も対立することになりました。

もう一つの出来事とは、引退して大御所になった義晴が「右近衛大将」の官職を受けていることです。

室町幕府の将軍は、在任中に権大納言と右近衛大将を兼務→内大臣という順番で官職が進むのがスタンダードでした。
しかし、義晴は権大納言になっていながら、長い間、右近衛大将の職を受けていなかったのです。

その状態のまま義輝に将軍を譲ろうとしたので、ときの帝である後奈良天皇や義晴の義兄(妻の兄)である近衛稙家は
「まさか義晴のヤツ、何もかも投げ出して『あとのことは家臣と倅に任せた!^^b』なんていい出すつもりじゃないよな?」(超訳)
と懸念を抱きました。

似たようなことやってる人がこれまでの足利家に何人かいるので、朝廷の懸念も尤もなコトだったのです。

そのため、まだ義晴が就いていなかった右近衛大将の官職を与えて、引き止めにかかったのでした。

残念ながら義晴の真意はわかりません。
ただ、官職に任じるたびに何かしらの式が行われて費用がかさむため、無駄を省こうとしたのではないでしょうか。これはこれで現実的な考えですね。

 

右腕だった六角定頼にあっけなく裏切られ

何はともあれ、義晴は室町幕府では数少ない”大御所”として、義輝の後見を行っていくことになりました。

親子の会話がどんなものだったかは推測するしかありませんが、おそらくは将軍の立場や役目、その地位を保つことの難しさなどを諭したことでしょう。

上記の通り、義輝はこのとき11歳。
実務を行うには厳しいにしても、ものの善悪や自分の立場は充分理解できる年齢です。大人として扱われるのが早かった時代のことですし。

あるいは義輝の言動を見て、義晴が「そろそろあいつも道理がわかるようになってきたから、俺が元気なうちに将軍を譲りたい」と思ったのかもしれませんね。

こうして後のことは定まってバンザーイとはならないのが、この時代。
細川氏の争いはまだまだ続きました。完全にペンペン草も生えません。

義晴は天文16年(1547年)3月、瓜生山城(うりょうさんじょう・現京都市左京区)へ入って、今度は氏綱方に味方する姿勢を明らかにしました。

しかし、義晴方だった六角定頼が離反して晴元に味方し、摂津でも義晴方の薬師寺元房ら諸将が晴元に降伏。
上記の通り、六角定頼は「管領代」、つまり義晴が「これからお前を右腕扱いにするからよろしくな」と頼りにしていた人物です。

そういう人に裏切られてしまったのです。嫌な予感しかしませんね。

更にはこの年の夏、細川・六角連合軍が瓜生山城を攻撃し、義晴は自ら城に火を放ってまたまた近江坂本へ逃走。
半月程度で晴元と和睦して京に戻ってますが、もう数えるのも疲れたよ(´・ω・`)

六角定頼からは「晴元殿と和解なさったほうがいいですよ」(意訳)という手紙が届きました。
関係性がややこしいところですが、定頼からすると義晴は「頼りない将軍だがむざむざ殺すのも気が引ける」、晴元は「娘のダンナだから味方してやろう」みたいな感じです。まったくもってイヤな三角関係です。

こんな感じの「アイツは気に食わないけど、ダチのダチだからできれば対立したくない(ダチとの関係が壊れるから)」みたいな関係があっちこっちで同時に存在していたのが、当時の室町幕府と近隣事情です。
もうホント、将棋大会でもやって権力者を決めればいいのにねぇ。

 

再び近江へ逃げながら、慈照寺の裏に中尾城を築城

天文十八年(1549年)、今度は細川晴元と三好長慶の二人が三好政長の処遇をめぐって対立し始めました。
政長は三好氏の分家筋の人で、晴元の側近です。

三好本家の長慶からすると、
「なんでアイツ、俺を飛び越えて細川氏に仕えてんの? おかしくない?」
と思うのは当たり前です。また、河内の複数箇所の代官職を巡る対立もありました。

そのため、政長から見て主君の晴元と、本家の長慶の仲もこじれはじめた……というわけです。

義晴は、晴元に味方しました……が、【江口の戦い】で政長が戦死し、晴元が敗北すると、今度は、義輝と晴元、妻の兄である近衛稙家と共に近江の朽木谷へ逃げます。

やっぱり「そのまま近江にとどまればいいんじゃないかな」という気がしますが、義晴は諦めません。
慈照寺(銀閣があるお寺)の裏にある地蔵山に、中尾城の築城を開始したのです。

当時、普及し始めたばかりの鉄砲を意識し、城の壁に石や砂利を詰めさせて防御力を高めたといいますから、ガチでやり合う気だったのでしょう。
その割に、根本的な問題を解決しようとか、似たようなことが今後起きないように工夫するとか、そういう素振りが見えないのですが……。

もしくは、そういう考えが浮かぶ前に、寿命が来てしまったのかもしれません。

中尾城を造り始めて間もなく、義晴の体調は悪化。
天文十九年(1550年)3月には穴太(あのう・現滋賀県大津市穴太)に移り、そのまま回復せず亡くなっています。
享年40(満39歳没)。

足利義晴/wikipediaより引用

 

死因は悪性の水腫ながら自殺説も残っている

足利義晴の死因は、悪性の水腫だったといわれています。

水腫が起こる病気はいろいろありますが、最晩年は「果汁の粥をすすりながら進軍した」という記録があります。この果汁がどの果物かわかれば、病名を突き止めるヒントになるかもしれません。
人間、無意識に足りない栄養素を補おうとするものですから。

一方、義晴の死の直後、奉公衆の一人・進士晴舎(しんし はるいえ)から上野の戦国大名・横瀬(由良)成繁に宛てた書状では
「義晴様が自害なされた」
と書かれているとか。

となると、病状を悲観した義晴が自ら……ということもありえますね。

死の前日、絵師の土佐光茂を呼び寄せて自らの肖像画(上掲の画像)を描かせているのも、その裏付けになるかもしれません。
普通、肖像画を描かせるのって元気なときに権勢を誇るためですから、遺影として残そうとしたのでしょうか。義晴の葬儀はかなり簡素なものだったと伝わります。

近江と京の反復横跳び生活ではありましたが、義晴は久々に生涯「将軍」の座を保ち続けた人でもあります。

おそらく、義晴の後半生は息子・義輝が将軍として安定した一生を送るための準備だったのでしょう。
細川氏の始末ができていれば、それも不可能ではなかったはずです。

ただ、その義輝は、歴代の征夷大将軍の中で最も苛烈な最期を迎えることになるのですが……。

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【参考】
国史大辞典「足利義晴」
足利義晴/wikipedia

 



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