「小瘡」を発症し、山代温泉(石川県加賀市)へ湯治に出かけていた明智光秀一行。
幸いにも10日ほどで病気は治りました。
そもそも小瘡は、身体に小さい出来物や、皮膚に赤色の発疹等ができるという皮膚病で、体が動かなくなる大病ではありません。
越前・朝倉義景のもとで鉄砲術で身を立てたものの、その出世を妬まれて、相当、精神的にまいっていたのでしょう。ストレス性の疾患とも想像でき、温泉でのリラックス効果が大きかったのではないでしょうか。
なんせ旅の途中で立ち寄った「北潟の御万燈」や「潮越の根あがり松」など、光秀のイメージからは程遠いワーキャーな展開だったことは前回報じさせていただきました。
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光秀の「漢詩碑」を福井県雄島で発見! 超わかる明智軍記第5話
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しかし、ここで大事件が通達されます。
13代将軍・足利義輝が三好三人衆たちに殺害されたというのです。
今回は、旅の続きから帰国するまでの『明智軍記』第6話「足利将軍家長物語事」を見て参りましょう。
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素麺パーティーしていたら
山代温泉で英気を養った光秀一行は、温泉付近にある名所巡りもしておりました。
付近と言っても、温泉街の中にある名所ではなく、山代温泉を拠点として放射線状に立地。これが、どこも地味に遠いんですよ。
菅生石部神社は山代温泉の4km西にあり、医王寺は山代温泉の5km南、那谷寺は山代温泉の5km東にあります。ついでに山中温泉も行った可能性もありますね。
いずれも徒歩で片道1時間ってところでしょうか。
【訪問した観光地】
①「敷地の天神」=加賀国二宮・菅生石部神社(石川県加賀市大聖寺敷地ル乙)
②「山中の薬師」=国分山医王寺(石川県加賀市山中温泉薬師町)の本尊・薬師如来
③「那多の観音」=自生山那谷寺(石川県小松市那谷町ユ)の本尊・千手観音
それぞれの場所は以下の地図をご参照ください。
【左】菅生石部神社
【下】国分山医王寺
【右】自生山那谷寺
ひとしきり観光を楽しんだ光秀一行。
ちょうどこのころ長崎称念寺から、山代温泉の旅館にいる同寺住職の薗阿上人へ「豊原そうめん」が送られてきたので、みんなで食べたそうです。
長崎称念寺から山代温泉まで。グーグルマップによると徒歩で約24kmの距離ですから、若い僧侶が差し入れを持っていくには無理のない範囲ですね。
※赤が長崎称念寺で、黄色が山代温泉です
それより気になるのは「豊原そうめん」。福井県坂井市丸岡町豊原にある豊原寺(称念寺の5km東)の門前で売られていた丸岡名物です。
西暦700年頃から、非常食、保存食として作られ、江戸時代になると、地元の丸岡藩が公儀(江戸幕府)へ「豊原素麺」とお酒を献上しておりました。お酒の起源は白山豊原寺の僧房酒「豊原酒」だとか。
豊原寺は、大徳泰澄が白山三所権現を祀ったのが創始の古寺です。
『明智軍記』第24話「叡山破滅事付討捕和尒越後守事」には「豊原寺は三百坊に余り、平泉寺は千坊に及ぶ程の繁昌成り」とあり、かつてはかなり賑わっていたことがうかがえます。
しかし届いたのは素麺だけではありませんでした。
大事件直後に徹夜の足利将軍トーク
ほどなくして越前から飛脚が到着しました。
そして、
【足利宗家第20代宗主にして室町幕府第13代征夷大将軍の足利義輝が討たれた】
という一報が入ります。
いわゆる【永禄の変】ですね。
事件は三好三人衆と松永久通(松永久秀の息子)らが蜂起し、畿内で敵対していた義輝を殺害しました。
【注】大河ドラマ『麒麟がくる』で足利義輝は向井理さん、松永久秀は吉田鋼太郎さんが演じられています
それを聞いた一行は、さぞかし慌てふためくのかと思ったら、「足利将軍家について知りたい」とのこと。実に呑気です。
それは明智光秀も同じで、足利歴代将軍について延々と語ります。
この記述が非常に長い。かいつまんで進めますので、完全版の現代語訳をご覧になりたい方は以下のサイトへどうぞ。原文と併せて掲載しておきました。
基本的に、室町時代初期のことは『太平記』に書かれており、江戸時代には「太平記読み」(『太平記』を読み聞かせる人)や「太平記講釈」(『太平記』を講釈する人)がいたほど。
江戸時代ほど多くはないにせよ、戦国時代には『太平記』を読む物語僧もいました。
ですので、光秀一行の武士階級や僧侶たちでしたら、ある程度の中身は知っていたでしょう。長崎称念寺には新田義貞のお墓があるほどですから、義貞については薗阿上人の方が詳しいに違いありません。
なお、2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の脚本を担当するのは池端俊策氏です。
池端氏はかつて大河ドラマ『太平記』の脚本を担当したことがあり、今回の執筆にあたっては「室町時代の始まりを書いたから、今度は終わりを書いてみたい」と語っております。そこで実現したのが、足利義輝の時代から始まる今回の大河だったんですね。
土岐氏と明智の正当性を主張か
明智光秀は、各将軍について、順に説明しました。
最も興味深いのが足利尊氏でしょうか。光秀の出自とされる土岐氏の話に触れていて、詳しくは以下の通り。
軍兵が欲しかった尊氏は土岐氏を頼り、見返りに遠山氏の領地である明智上下村(現在の岐阜県恵那市明智町)を与えました。
そこに送り込まれた土岐氏の分家が「明智」と称したようで。後に石清水八幡宮領「明智上下庄」となり、遠山氏の要望で返還されたので、土岐明智氏は、本拠地を可児郡(通称「明智八郷」)に移します。
光秀は、この足利尊氏宛行状(御判・御直書)を持っていたようで、『戒和上昔今禄』にこう記されています。
【原文】我先祖、忠節を致す故、過分に所知下されし尊氏御判、御直書等、所持すれども、当知行無き故、中々、右府様へ御訴訟も得申さず
【意訳】私の先祖は、足利尊氏に従ったので、直筆の新知の宛行状を頂いた。持ってはいるが、昔のものであるので、その宛行状をもとに織田信長公に「そこに書かれている領地を返して欲しい」と訴え出る事は出来ない
この「足利尊氏書状」については記事末に原文・訳文を掲載しておりますのでよろしければ後ほどご覧ください。
土岐氏は、後に分家の数が120以上となり、一族は「美濃源氏」と呼ばれました。
この頃の土岐氏は、兜に桔梗を挿して戦ったことから「桔梗一揆」と呼ばれ、足利尊氏からの信頼もかなり篤かったようです。
「御一家(注:足利家)の次、諸家の頭」※『家中竹馬記』
「土岐絶えば、足利絶ゆべし」※『土岐家聞書』
ちなみに、美濃源氏発祥の地・一日市場館に建てられた土岐氏初代・土岐光衡像のポーズも、桔梗の花を兜に挿し、戦勝祈願する様子を表しています(2019年に設置)。
光秀の説明と矛盾する記述もチラホラ
さてこの先は、義栄、義昭を除き、全部で13代あるので、とても長い説明になっています。ざっと歴代将軍と在職期間、享年をまとめておきましょう。
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