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【山代温泉の光秀】
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以下が、室町幕府の歴代将軍です。
①足利尊氏(たかうじ):在職:1338年~1358年(19年8ヶ月)享年54
②足利義詮(よしあきら)在職:1359年~1367年(9年)享年38
③足利義満(よしみつ):在職:1369年~1395年(26年)享年51
④足利義持(よしもち):在職:1395年~1423年(28年4ヶ月)享年43
⑤足利義量(よしかず):在職:1423年~1425年(1年11ヶ月)享年19
─足利義持(よしもち):在職(将軍代理):1425年~1428年(2年11ヶ月)
⑥足利義教(よしのり):在職:1429年~1441年(12年3ヶ月)享年48
⑦足利義勝(よしかつ):在職:1442年~1443年(8ヶ月)享年10
⑧足利義政(よしまさ):在職:1449年~1474年(24年8ヶ月)享年55
⑨足利義尚(よしひさ):在職:1474年~1489年(15年4ヶ月)享年25
─足利義政(よしまさ):在職(将軍代理):1489年~1490年(9ヶ月)
⑩足利義材(よしき):在職:1490年~1493年(3年)享年58
⑪足利義澄(よしずみ):在職:1495年~1508年(13年4ヶ月)享年32
─足利義稙(よしたね):在職:1508年~1522年(13年6ヶ月)⑩義材が再任
⑫足利義晴(よしはる):在職:1522年~1547年(25年)享年40
⑬足利義輝(よしてる):在職:1547年~1565年(18年5ヶ月)享年30
⑭足利義栄(よしひで):在職:1568年~1568年(8ヶ月)享年29
⑮足利義昭(よしあき):在職:1568年~1588年(19年3ヶ月)享年61
『明智軍記』には、史実と異なる部分もあります。
たとえば以下の箇所。
【原文】御舎弟・左馬頭基氏を鎌倉に居て、関東八州、並びに、伊豆、越後、佐渡、出羽、陸奥、以上十三箇国の主君
【意訳】義詮の弟・基氏は、鎌倉公方として13ヶ国を統治した
鎌倉府が統轄するのは、関東八州(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)と甲斐、伊豆の10ヶ国であり、明徳3年/元中9年(1392年)に陸奥、出羽が加わって12ヶ国になりました。
ただし、陸奥、出羽については、応永7年(1400年)に設置された奥州探題へ移設されます。
『明智軍記』が甲斐国をはずし、越後、佐渡国を入れた理由は不明です。
単なるミスかもしれませんし、他にも単純な誤りがあります。
・「四職」が3人だけ(一色詮範が抜けていた)
・畠山義深が2度出てくるが、既に亡くなっており、どちらも畠山基国
・古河公方がいるのは下野国古河ではなく下総国古河
さらに気になったのが次の2点です。
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義輝はそんなに弱くない!
まず1点目は、殺された将軍・足利義輝に関する光秀の評価です。
【原文】義輝公、柔和に御座して、武将には不足の君と承りき。最も愛しき御事なり
【意訳】足利義輝は、柔和で、武将としては物足りないお方であったと聞いています。気の毒で、おかわいそうです。
これが現代に伝わる足利義輝像とは真逆。なんせ義輝は、塚原卜伝から究極奥義「一之太刀」を伝授された剣豪として知られます。
他にも剣聖として崇められる上泉信綱からも手ほどきを受けたという話もあるほど。
永禄の変での最期にしたって、畳に刀を何本もぶっ刺し、敵を斬って、血と脂で切れなくなるたびに刀を取り替え、また敵を斬っていた――なんて凄まじいエピソードが残されているほどです。
柔和どころか血気盛んと表現した方が良さそうです。
ちなみに一之太刀とは「一太刀(一振り)で相手を倒す剣法」とされおり、詳細は不明です。
一説に、上段で構え、すきを見せて相手に先に打ち込ませ、刀を思いきり強く振り下ろして、相手の刀を弾きながら斬る剣法だとか。
ポイントは「相手に先に仕掛けさせること」だそうです。
豊臣秀頼佩刀「無想正宗」の使い手・眠狂四郎の「円月殺法」もそうですね。「円月殺法」は、刀を回し、じれた相手が先に仕掛けてきたところを一太刀で倒す剣法ですので。
飛脚の到達スピードが異常
気になったこともう1点は、飛脚の到達速度です。
越前国から山代温泉(加賀国)に飛脚が来て、明智光秀一行が「永禄の変」を知った日は、永禄8年(1565年)5月19日のこと。つまり足利義輝が殺された当日です。
さすがにありえないでしょう。
たとえば、6月2日早朝に起きた【本能寺の変】の時、柴田勝家は京都から310km離れた魚津城(富山県魚津市)を攻めていました。
その際のことは「六月四日、京都の飛脚、到来して」本能寺の変を知ったと『北陸七国志』にありますが、近年の研究では、もっと後(6月5日以降)とされています。
いずれにせよ、加賀国山奥の山代温泉にいる明智光秀が、その日の内に京都の足利義輝の死を知ることはありえません。
★
もう一つだけ気になったのは「一大事(足利義輝の暗殺)が起きたので家に帰った」としていることです。
事件の速報を聞いて、それから呑気に一晩語り合っていたワケです。
さほどの緊急性が感じられません。
話の冒頭で「小瘡」が完治した」とあるので、「病気が治ったから家に帰った」と書いたほうが自然だと思うんですよね。
『明智軍記』には、永平寺や船荷航路、あるいは足利歴代将軍など、明智光秀とそれほど関係ない話もなぜか詳しく書かれています。
著者の趣味だったんでしょうか……。
さて、次回は第7話です。そこから『明智軍記』第2巻になり、次の4話が収録されています。
第7話「織田信長公由来事付尾州平均事」(織田信長の話)
第8話「秀吉公立身之事」(豊臣秀吉の話)
第9話「信長公妹被嫁浅井事付斎藤龍興落居事」(織田信長の話)
第10話「従織田殿被招明智事」(明智光秀が織田信長に仕官する話)
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なお、第7・8・9話は織田信長や豊臣秀吉の話で、明智光秀は登場しません。今回(第6話)の話の続きは第10話で。
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文:戦国未来
※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです
※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください
観応元年(1350年)1月30日付「足利尊氏書状」
すでにはりまの國にうちこえて、ぢんをとる所なり。ゑちごの守中國のかたきのこらずうちちらして、ひとつになりて候ほどに、やがてきやうとへつめ候へく候。かさねてぢやう日をきかれ候て、そなたよりもつめられ候へく候。そなたの事ハいかうたのミ入て候。すべてこのごろはそらごとをかたきのかたにとくり候て、ひろう候なる、心へられ候へ。いそぎしよハうよりつめあはせ候て、兵衛督入道直義をちうバちし候へく候。そのむねを心へられ候へ。猶々そなたの事ハたのミ入て候。
正月卅日 (判)
あけちひこ九郎殿
ときのまご三郎殿
【解説】足利尊氏は、「観応の擾乱」(1349-1352)の時、土岐明智彦九郎頼重と土岐孫三郎に加勢を求める書状を出し、「そなたの事ハいかうたのミ入て候(そなたの事は以降頼み入りて候)。(中略)猶々そなたの事ハたのミ入て候(猶々そなたの事は頼み入りて候)」と頼りにしていることを伝えている。この頃の本家「土岐氏」と分家「土岐明智氏」は、分かれたばかりで、ほぼ対等に扱われていたという。
明智光秀略年表
この年表は65回の連載が終わると完成します。
元号年(年齢) | 起きたこと |
---|---|
享禄元年(1528年)1歳 | 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話) |
弘治2年(1556年)29歳 | 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話) |
称念寺領内に妻子を預け、諸国武者修行に出発(明智軍記 第3話) | |
永禄5年(1562年)35歳 | 6年間の諸国武者修行を経て帰国(明智軍記 第3話) |
【永禄の一揆】において、大将にアドバイスし、鉄砲を使って鎮圧に貢献する(明智軍記 第2話) | |
永禄6年(1563年)36歳 | 4月19日、鉄砲演習。この結果、鉄砲寄子100人を預けられる(明智軍記 第3話) |
永禄7年(1564年)37歳 | 3月22日、朝倉義景に城の立地条件を語る。(明智軍記 第4話) |
永禄8年(1565年)38歳 | 5月9日~20日、観光旅行を兼ねて、山代温泉で小瘡の湯治。(明智軍記 第5~6話) |
5月9日 雄島で漢詩を詠む。雄島に漢詩碑あり。(第5話) | |
5月10日 「汐越の松」で和歌を詠む。(第5話) |