蘆名盛隆

蘆名家

鎌倉御家人たちの末裔が戦国時代にドンパチ 蘆名盛隆の哀しき最期

かつて「女性は結婚したら、嫁ぎ先の言うことを聞くように」というのが当たり前でした。

しかしこれ、実際は婿養子にも当てはまりますよね。

「実家を出て別の家に入るのだから、以後は結婚先に従う」というわけで、戦国時代、これを怠ったばかりに笑えない事態を招いた方がいます。

天正十二年(1584年)10月6日に亡くなった蘆名盛隆です。

東北の戦国史ではお馴染みの方ですが、今回初めて知ったという方もいらっしゃるかもしれません。

まず「蘆名家とはどんな家なのか?」から見て参りましょう。

 

三浦一族の末裔が東北蘆名氏に

会津蘆名家は、桓武平氏の流れをくむ三浦義明の七男・佐原義連をご先祖様とする家だといわれています。

大河『鎌倉殿の13人』でもメインキャラである、三浦義村和田義盛、あるいは畠山重忠は三浦義明の孫です。

さすがに佐原義連まではドラマで注目されませんでしたが、いずれにせよ蘆名が平氏、ひいては皇室の末裔であり、鎌倉時代からの名家だとはご理解いただけるでしょう。

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まぁ、ある程度由緒ある武家は、大半が皇室(源氏・平氏)か藤原氏の血に辿り着くものですね。

蘆名家は室町時代から会津守護を名乗り始め、16代・蘆名盛氏が家を大きく発展させました。

しかし、親戚の猪苗代家を含めた家中の統制でアタフタしていたところ、天正二年(1547年)に17代の盛興が亡くなり、さらには天正八年(1580年)に盛氏もまたこの世を去って、混乱の極みに陥ります。

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仕方がないので、蘆名家の家臣たちはどこかから養子を迎えて、家名を保とうと考えました。

そこで白羽の矢が立ったのが、これまた東北の名家である二階堂氏から来た蘆名盛隆でした。

 

人質だったのにいつの間にか当主

二階堂氏は、藤原南家・武智麻呂(むちまろ)の子孫といわれる家です。

これまた『鎌倉殿の13人』との関係が深い一族で、北条義時の後妻・のえ(伊賀の方)の祖父として注目された二階堂行政がその祖になります。

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彼の末裔が現在の福島県須賀川市に根を下ろし、戦国時代まで一族が存続していました。

ただし、この時代には蘆名氏に圧迫されて人質を出しており、とても栄えていたとは言い難い状態でもあります。

そこで差し出された人質が盛隆です。

彼は先代である盛興の未亡人、そして自分から見れば叔母でもある彦姫と結婚して蘆名の婿養子に入っています。

叔母とはいえ、彦姫は盛隆の9歳上ですから、当時としては「ちょっと歳離れてるけど別にいいよね」くらいの感じだったでしょう。

ついでにいうと、彦姫は伊達晴宗の娘であり、伊達政宗にとっては叔母にあたります……火種の予感が湧き立ちますね。

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盛隆は4歳の時から蘆名氏の人質になっていたので、家を継ぐ事自体は違和感がなかったかもしれません。

婿入り前に彦姫と接点が多かったかどうかはわかりませんが、何度かは顔を合わせたこともあったでしょうし。

「人質になったと思っていたら、いつの間にか当主を任されていた」という一見わけのわからん話ですが、こうして盛隆は東北の雄・蘆名家を背負っていくことになります。

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