天正元年(1573年)8月28日、織田信長の妹・お市の最初の嫁ぎ先である浅井家の小谷城が落城しました。
この後味の悪い戦の中で運命が変わった人がいます。
その名は海北友松(かいほう ゆうしょう)(1533-1615)。
実は本日の主役はこちらの方です。
海北友松は浅井氏家臣の出だった
彼はお父さんが浅井家の家臣でした。
三男とも五男とも言われており、食い扶持を減らすためでしょうか、幼少のころから寺に預けられています。
そうこうしているうちに、浅井家が滅亡し、父や兄たちが皆死んでしまったため、家を再興するため40歳で還俗したといいます。
しかし、お家再興はそうそううまくいくことではありません。
友松は歯噛みし、
『何とか実力者と交流を持つための方法はないか?』
と考えました。
そこで思いついたのが、連歌や絵画などの文化的な技術を身につけ、名のある武将たちと知り合うきっかけをつくることだったのです。
友の亡きがらを奪い取るカブキぶり
彼は当時広まりつつあった「茶の湯」にも親しみ、明智光秀の家臣・斎藤利三などの武将や東陽坊長盛といった僧侶と親交を結ぶことができました。
特に利三とは仲が良かったらしく、光秀が滅びた後は処刑された利三の遺体を「ダチを返さんかい!!」と槍を振るって奪い去り、手厚く葬ったという説もあります。
芸術修行もしたとはいえ、やはり元は武家ですから、武家として家を再興したい。
どうしようかと再び悩む友松に、決断させたのはその頃天下人になっていた秀吉でした。
「お前、絵を描くほうが向いてそうだからそっちに集中しろよ」と。

絵・小久ヒロ
秀吉が友松の気持ちを知っていたかどうかはわかりません。
が、皮肉なことに手段が目的になってしまったのでした。
友松は納得いかなくても、相手が天下人ですからその命令には逆らえませんでした。
絵画の道に生きた友松は、数々の名画を生み出していきます。
でもやはり本望ではなかったのか「オレ、やっぱり芸術家よりも武家として生きたかったよ。年取っちゃったけど、まだどこかにチャンスないかなあ」なんてボヤキが残されています。
そんな未練を抱えていながらも、重要文化財級の絵画を描けたのですから、秀吉の見立ては当たっていたのでしょうね。
友松の作品「雲龍図」はもともと建仁寺にあった
そんな友松のお墓は、京都の建仁寺というところにあります。
ここは教科書や資料集によく載っている「風神雷神図」があるお寺です。
友松の作品のひとつ「雲龍図」などは元々ここのお寺の襖に描かれたものでした。
台風でそこの建物が壊れてしまってからは、掛け軸として仕立て直され現在も残っています。
ちなみに、友松のお墓の隣には親友・斎藤利三のお墓があります。
「オレが死んだら、友達の隣に墓を作ってくれ」と言い残していたそうです。
雲竜図などの名画は、もしかすると利三の供養の意味もあったのかもしれませんね。
本望ではなかったものの、人に見出されて立派な作品を残した友松。
もしかすると、現代でもこんな人はいっぱいいるのかもしれませんね。
【参考】
国史大辞典
京都国立博物館
海北友松/wikipedia