称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎)

明智軍記 浅井・朝倉家

永禄の一揆で光秀ら明智三人衆が躍進!超わかる明智軍記 第2話前編

軍記物(小説)でありながら、明智光秀の物語を描くときには外せない『明智軍記』。

その内容を解説する本連載『超わかる明智軍記』の今回、第2話・前編は「永禄の一揆」と「明智三人衆」に注目です。

まずは第1話の内容を

「明智の家系図」と美濃守護土岐氏と斎藤氏~超わかる明智軍記 第1話

続きを見る

三行でマトメておきますと……。

①美濃(岐阜県)の明智城が落城
②明智光秀は妻子や従兄弟の光春と光忠を引き連れて穴馬(福井県大野市)へ
③その後は長崎称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎)の門前で暮らしていた

というものでした。

お玉こと後の細川ガラシャは、その家で生まれたそうで、長崎称念寺に行ってみると

【明智光秀公と娘お玉(細川ガラシャ)ゆかりの寺】

と書かれた幟が立っていました。

称念寺駐車場の案内板と幟と、背景に建設中の高速道路

明智城の落城は、明智光秀が29歳の時です。

なので『明智軍記』を読んでも、それまでの素性については不明。

長崎称念寺で売られている書籍『改訂 明智光秀公と時宗・称念寺』注1 によれば、以下のような解説が記されています。

称念寺見解による光秀の足跡

十次郎(後の明智光秀)の父・明智光綱が亡くなると、母・小牧と祖母の仲が悪くなり、母は離縁されて明智城を追い出される

母と共に城を出た十次郎は、母の腰元・竹川の叔母が庵主である西福庵(称念寺の塔頭)に居住

天文9年(1540年)13歳のとき、十次郎は上洛して細川藤孝に仕え、16歳の天文12年(1543年)6月25日には元服して明智光秀と名乗った

母と仲の悪かった祖母が亡くなったので明智城へ戻ると、斎藤義龍に攻められ、再び長崎称念寺へ逃げ込む

※注1 著:高尾察誠(称念寺41代住職)平成24年発行・平成31年改訂

一方で、美濃源氏発祥地である神戸城(岐阜県瑞浪市土岐町一日市場・現在の八幡神社)には、次のような伝承が記されています。

神戸城の光秀伝承

明智光秀は、享禄元年(1528年)3月10日、土岐郡神箆村(岐阜県瑞浪市土岐町)の高屋館で生誕

光秀2歳のときに両親が離婚し、その後は明智城主・明智光安に引き取られる

父の明智光綱は、光秀11歳の時に亡くなり、母は実家(若狭国小浜)に戻って、初代・冬広という刀工と再婚

初代・冬広の長男(前妻との子)が二代目・冬広で、次男(後妻の連れ子)が明智光秀だという伝承も

もしかして明智光秀は、母と一緒に小浜へ行ったのかもしれません。

なお【本能寺の変】の後、初代・冬広は、明智光秀の子(一説に明智光春の子)を匿いました。この子が三代目・冬広だとも──。

調べれば調べるほど謎が深まってきます。

「明智光秀公伝承」美濃源氏発祥地・神戸城(八幡神社)の現地案内碑

ともかく先へ進みましょう。

今回の第2話から舞台は越前国へ。

越前国は、現在の福井県北部(通称は「嶺北」で、これは「木ノ芽峠以北」の意。「越前地方」とも)

 

『明智軍記』第2話「従越前鎮加州之一揆事」

『明智軍記』第2話のタイトルは次の通りです。

タイトル

明智軍記 第2話タイトル

「従越前鎮加州之一揆事」

現代語で見ると、こんな感じですね。

タイトルの意味

明智軍記 第2話タイトルの意味

越前国の朝倉義景が加賀国に軍を送って「永禄の一揆」を鎮めた

後に信長に滅ぼされたことで戦国ファンにはお馴染み・朝倉義景の登場です

何やら加賀の一揆に絡んでいくようですが、学者さんたちはこの「永禄の一揆」の存在を認めておらず、そもそも光秀が越前で朝倉義景に仕えていたことにすら懐疑的です。

理由は単純。
『明智軍記』以外の史料がないのです。

「永禄の一揆」について書かれている一次史料(日記や手紙)は皆無。
明智光秀が越前国に住み朝倉義景に仕えたとする記録は『遊行三十一祖京畿御修行記』の一件しかありません。

また、朝倉家の家臣であれば掲載されているはずの『朝倉義景亭御成記』や『一乗録』に、光秀の名前は載っていません。

どんな史料?

『朝倉義景亭御成記』……足利義昭が朝倉館に御成のとき対面した朝倉家の家臣一覧

『一乗録』……朝倉家臣123家の紹介

では、唯一の史料における光秀の扱いはどのようなものだったか?
注目してみましょう。

 

長崎称念寺の門前に10年間住んでいた

『遊行三十一祖京畿御修行記』は、時宗総本山遊行寺31世・同念上人の回国修行記(業務日誌)です。

天正6年から同8年(1578-1580年)の事績を記録。
大浜称名寺(愛知県碧南市築山町)に保管されておりました。

大浜称名寺は、松平初代・松平親氏が逗留したことや、9代・松平元康(後の徳川家康)の幼名が竹千代と決められた寺として、徳川ファンの間ではお馴染みの存在です。

同史料に、次のような記載があります。

【現代語訳】

上人は1月24日、惟任日向守光秀のいる近江坂本へ、六寮(尾張国萱津光明寺の僧・梵阿ぼんあのこと)を派遣した。

「南部でご修行を行いたいので、大和国の領主である筒井順慶へ、惟任日向守光秀から一筆、紹介状を書いていただけないか」と依頼したのである。

惟任日向守光秀は、もとは明智十兵衛尉光秀といって美濃国の土岐一族。

主君のいない浪人になったので、越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に10年間住んでいたことで、昔話に花が咲き、六寮は、坂本に暫く留められた。

※史料『遊行三十一祖京畿御修行記』
「同廿四日坂本惟任日向守へ六寮被遣、南都御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申越。惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家。牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠(ねんごろ)にて、六寮、旧情甚に付て坂本暫留被申。」

梵阿という僧侶と光秀が、なにやら昔話で盛り上がったようですが、注目したいのはやはりその素性ですよね。

ここでは3つのポイントが浮かび上がってきます。

ポイント

・光秀は土岐出身で
・明智十兵衛尉光秀といい
・朝倉義景を頼って称念寺の門前にて10年間暮らしていた

他に、ちょっと弱い証拠としては
「服部七兵衛尉宛天正元年(1573年)8月22日付光秀書状」
という手紙があります。

 

光秀の手紙に記された 越前在住の「竹」とは誰か?

この手紙が送られた状況を見てみましょう。

時は元亀4年7月28日。
戦乱などの災異のため、年号が「天正」に改元されました。

それから約1ヶ月後の8月17日。
朝倉義景の元家臣・前波吉継(後の桂田長俊)を案内役にして織田信長が越前国へ攻め込むと、8月20日に朝倉義景は大野で自害します。

手紙というのは、その2日後に書かれた明智光秀のものです。
宛先である服部七兵衛尉は、前波吉継の家臣で、手紙の意味は次の通りになります。

【現代語訳】

「今回の朝倉征伐の時、竹のために奔走してくれたので、お礼に100石を新たに与える」

※史料「服部七兵衛尉宛天正元年(1573年)8月22日付光秀書状」
今度、竹身上之儀付而、御馳走之段令祝著候、為恩賞百石宛行候。全可有御知行候。恐々謹言。
八月廿二日 服部七兵衛尉 明知十兵衛尉光秀

越前にいた「竹」という人物のため、何やら働いてくれたことへのお礼ですね。

織田家臣団で「竹」といえば、通常は信長の小姓・長谷川秀一を指します。
長谷川秀一であれば、織田信長が書状を書くでしょう。

しかし、文面の「竹」は明智光秀に近い人、たとえば家族、親友、恩人などが想像されます。
もしかしたら母の腰元であった竹川のことでしょうか……。

ただし「竹が越前国に住んでいたから、明智光秀も越前国に住んでいたのだろう」という論理は脆弱です。
竹は美濃国で明智光秀と知り合い、その後、越前国へ移住した人かもしれません。

以上のように、明智光秀が越前国に住み、朝倉義景に仕えていたという証拠は主に2つ(同念上人の回国修行記と光秀の書状)しかありません。

どうして光秀に関する史料が少ないのか。
理由は3つほど考えられます。

史料の少ない理由

理由①:明智光秀が、長崎称名寺が雇った寺侍(寺の警備員)だったから。

理由②:明智光秀が、朝倉氏の客将※注2、つまりは傭兵(アルバイト)であり、正式な家臣ではなかったから。

理由③:この時期の古文書には「明智光秀」ではなく別の名前で登場しているから。

※注2 客将とは?:居候先に臣従的態度を取りつつ、軍役を一部負担する武士のこと

理由①や②は【低い身分なので、記録されていない】ということです。
理由③は小林正信氏の「明智光秀=進士藤延同一人物説」があります。

いずれにせよ越前での活動を著したもの。
いったい光秀はどのような働きをしたのか?
次に「永禄の一揆」を見ていきたいと思います。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-明智軍記, 浅井・朝倉家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.