称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎)

明智軍記 浅井・朝倉家

永禄の一揆で光秀ら明智三人衆が躍進!超わかる明智軍記 第2話前編

永禄の一揆

当時、加賀国で勢力を誇っていた悪党の大将。
それは本願寺から派遣された尾山御坊(金沢御堂)の坊官・坪坂包明でした。

本願寺が、坊官の坪坂を退治してくれれば良いのですが、上手くいきません。

彼らは砦を築き、街道を往来する人から金品を強奪──その影響は、隣国である越前国にも及び、朝倉義景が立ち上がりました。

明智軍記』には次のようにあります。

【現代語訳】

加賀国の悪党たちが、納米(年貢米)を大坂の本願寺へ運ばず、自分たちの物とするようになった。

本願寺教如の父・顕如上人が、この状況を朝倉義景へ連絡してきたので、朝倉義景は加賀国へ連絡して改善を求めたが、承諾されない。

そればかりか、柏野、杉山、倉橋、千代などに砦を築いて、諸国から集まる交易品を理不尽にも奪い取るようになった。

領民は、朝倉義景へ訴えた。

義景はその嘆きを聞き「放っておける問題ではない」と派兵を決定。
北庄城(福井県福井市中央1丁目)の城主・朝倉景行を大将として、合計3800余人を加賀国へ向かわせた。

参加した将は、青蓮華景基、野尻主馬助、黒坂景久、溝江長逸、武曽采女、深町図書、細呂木薩摩守など。

朝倉軍は、月津、御幸塚、庄、安宅、敷地に陣を張ると、一揆方へ使者を送った。

「先年に交わした約束を破り、年貢米を大坂本願寺へ送らない上に、街道を往来する商人から商品を奪うなど、悪逆の限りを尽くしているので、掟(おきて・ここでは先年に交わした約束)を守らせようと、越前国から出陣してきた」

※『明智軍記』第2話「従越前鎮加州之一揆事」より
「加賀の悪党等、納米を大坂へ運送せず、恣(ほしいまま)に振る舞うの間、教如の父・顕如(けんにょ)上人より朝倉家へこの由を申し越されける故に、その趣(おもむき)を加州へ云ひ遣わしけれども、承引せず。剰(あまつさ)へ柏野、杉山、倉橋、千代など云ふ所に要害を拵(こしら)へ、国々より通りける往還の荷物を理不尽に奪ひ取る。これに依りて、諸人、屋形へ訴へ来たりて嘆き申すの間、閣(さしおく)べきに非ずとて、北庄の城主・朝倉土佐守景行を大将にて、青蓮華近江守、野尻主馬助、黒坂備中守、溝江大炊介、武曽(ぶそう)采女、深町図書、細呂木(ほそろぎ)薩摩守、以下、都合三千八百余騎、加州へ進発して、月津、御幸塚、庄、安宅(あたか)、敷地に陣を取り、一揆方へ使者を立て、先年の約束に違ひ、納米を大坂へ上さず、剰(あまつさ)へ、往来を悩ます条、悪逆の次第なれば、その掟(おきて)を定めんとて、出張する処なり。」

加賀の一揆衆たちは、年貢を自分たちで独占したんですね。
だから本願寺の言うことなど聞く気はさらさらない。

『明智軍記』によると、この「永禄の一揆」で明智光秀は、黒坂景久隊ではなく青蓮華景基隊に所属したようです。

 

御幸塚の戦い

陣所は、御幸塚城でした。

加賀国守護・富樫氏が築いたもので、別名は今江城と言います(石川県小松市今江町6丁目)。

この城で【御幸塚の戦い】があり、永禄5年(1562年)9月20日の経過が次のように記録されています。

【現代語訳】

青蓮華景基の部隊が御幸塚城に着陣。

休戦中であったが、明智光秀が、気の流れを見て「合戦の前兆」だと、大将・青蓮華景基に報告した。

大将・青蓮華景基は、構えをより堅固にするよう指示すると、夕方になって、一揆軍2000人が攻めてきた。

一揆衆の大将は金剛寺三郎右衛門。

これに対し、明智光秀など鉄砲の名手50人が井楼に上り、鉄砲を撃ちかける。

と、一揆軍の中に動揺が広まった。
彼等は鉄砲を初めて見て驚き、さらにこのとき「至剛の兵」が登場し、周囲の敵を蹴散らしてくれた。

真柄直隆・真柄隆基・隨伝坊の【真柄三人衆】である。

明智光秀は、敵がひるんだと見て総攻撃を提案すると、大将・青蓮華景基も「今が決戦のとき!」と決断。
500人で突撃する。

一揆軍が逃げ始めたので、味方はさらに追撃する。
と、今度は「深追いは無用」とアドバイスする光秀。

大将・青蓮華景基は、軍に撤退を指示した。

最終的に討ち取った敵の数は750人にのぼり、この【御幸塚の戦い】の敗北で一揆軍の大将・坪坂包明は降参、月津の総大将・朝倉景行に謝罪する。

以上をもって朝倉義景は鎮圧軍に撤退を命じた。

一向一揆鎮圧戦」というよりも、なんだか「盗賊退治」とか「鬼退治」という印象ですね。

三河国でいえば【三河一向一揆】ではなく、【額田郡一揆】に相当する戦いでしょう。

額田郡一揆や一揆そのものについての解説は記事末に付記しておきます。

 

明智三人衆の活躍

「御幸塚の戦い」で明智光秀はどのような戦功だったか?
抜き出すと、次のようになります。

①明智光秀が、気の流れを見て「これは合戦の前兆ですぞ」と、大将・青蓮華景基に告げた。

②明智光秀など鉄砲の名手50人が井楼櫓に上り、鉄砲を撃った。

③明智光秀は、敵が怯んだと見て、大将・青蓮華景基に総攻撃を促した。

④明智光秀は、大将・青蓮華景基に「深追いは無用」とアドバイスした。

光秀は鉄砲術に長けており、合戦では、従兄弟の光春、光忠と共に鉄砲を使って戦いました。

『明智軍記』には次のようにあります。

【現代語訳】

味方の兵である朝倉軍青蓮華隊が、敵の一揆衆を近くまで引き付けた。

そこで明智光秀、明智光春、明智光忠を先頭に、名手50余人が櫓や井楼櫓に上り、鉄砲を列(つら)ねて撃った。

一揆衆は、噂だけは聞いていた【鉄砲】を初めて見てパニック。
稲麻竹葦(とうまちくい・多くの人が入り乱れて群がっているさま)のように群がって立ちつくす。

結果、宗徒(一揆衆)の300余人は将棋倒しのように犇々ひしひしと倒され、皆、怯え、くずれて、御幸塚城の東の陣へ押し寄せた。

※『明智軍記』第2話「従越前鎮加州之一揆事」より
「味方の兵、近々と引き請け、明智十兵衛、同弥平次、同次右衛門を先として、究竟の鉄炮の上手五十余人、櫓、井楼に上り、鉄炮を列(つるべ)放し懸けたりければ、一揆の輩(ともがら)、鉄炮と云ふ名のみ計(ばかり)は聞けれども、始めて斯(かか)る物には逢ひつ、稲麻竹葦(とうまちくい)の如く立ち並びたる事なれば、争(いかで)か溜まるべき宗徒の郷民三百余人、将碁(しょうぎ)倒しの如くに犇々(ほんほん)と打ち倒され、悉くおびえ、頺(なだ)れて東の陣へ押し寄する」

一揆衆が鉄砲の名前しか知らない時期に、少なくとも50丁もの鉄砲を朝倉軍は手に入れていたのでしょうか?
だとしたら凄いことです。

井楼櫓は、弓を射たり、鉄砲を撃ったりする櫓で、『明智軍記』には「列撃ち」とあります、
3列に並び、先頭の列で撃ったら最後尾に回り、2列目が先頭に立って撃つという交代制射撃だったとか。

これも「三段撃ち」というようです。

 

光秀の軍師的お仕事マトメ

明智光秀は、射撃以外に関しては大将の横にいて軍師のような仕事をしていますね。

その状況も少し詳しく見てみましょう。

◆気の流れを見て合戦の開始を掴む、とは?

朝倉軍が一揆方に「すぐに解散せよ」と手紙を送ると、「相談して返事する」という返事が来た。
一揆衆は「返事が届くまで休戦だと気を抜いているであろう(油断しているであろう)」と朝倉軍を急襲する。
明智光秀の「合戦が近い」という警告を聞いて気を引き締めていたので、敵襲にも慌てること無く、対応できた。

◆敵が怯んだと見て大将・青蓮華景基に総攻撃を促す、とは?

御幸塚城から出て戦ったのは500人。
朝倉軍は総勢3800人であり、月津、御幸塚、庄、安宅、敷地の5部隊に分かれていたので、単純平均で1部隊800人弱になる。
月津の本隊には大勢がいたであろうことから、御幸塚城の500人というのは、大将・青蓮華景基の側近や井楼櫓の50人を除いたほぼ全軍であったはず。

◆大将・青蓮華景基に「深追いは無用」とアドバイスした、とは?

『司馬法』(仁本第一)の「はしるをうも百歩を過ぎず」を例に出し、次のように進言した。
「逃げる者を追うのは100歩までと兵書に書いてある。深追い御無用」
まさに「軍師」であり「知恵者」あるいは「知将」の本領発揮。

◆結果、どうなった?

【永禄の一揆】鎮圧でどのような変化が起きたのか?それは……。

・明智光秀
・明智光春
・明智光忠
たち「明智三人衆」の知名度が一気に高まりました。

結果、朝倉義景より「総攻撃と退却の時期を的確にアドバイスしたのは立派である」として、感状と鞍を置いた鴾毛つきげの馬が与えられております。

※『明智軍記』第2話「従越前鎮加州之一揆事」より
「明智十兵衛には、敵、寄せ来るべき気を察し、殊に鉄炮を以て数多の一揆を打ち亡ぼし、その上、軍配の諫言を申しし条、何れも神妙の至りに思し召す由にて、義景より御感状を賜はり、褒美として鴾毛の馬に鞍置いてぞI引かれける」

この感状が発見されれば【永禄の一揆】が実在したことが証明できるんですけどね。

鴾は、鳥の「トキ」ですから「土岐」に通じます。
洒落かな……。

――というところで第2話・前編を終え

◆中編「妻・明智煕子の黒髪伝説」
◆後編「怪力無双・真柄直隆」

は明日、

明智の黒髪伝説・髪を売り光秀を助けた妻煕子~明智軍記第2話 中編

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さらに続きは明後日ということでよろしくお願いします。

文:戦国未来

※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです

※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください

 

明智光秀略年表

この年表は65回の連載が終わると完成します。

元号年(年齢) 起きたこと
享禄元年(1528年)1歳 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話)
弘治2年(1556年)29歳 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話)
永禄5年(1562年)35歳 【永禄の一揆】において、大将にアドバイスし、鉄砲を使って鎮圧に貢献する(明智軍記 第2話)

 

額田郡一揆

室町時代の寛正6年(1465年)、三河国額田郡で、室町幕府や三河国守護に反抗する牢人による一揆が起きました。

彼等は交通の要所・井ノ口(愛知県岡崎市井ノ口町字楼)に砦を築き、京都(朝廷や幕府)へ運ぶ荷物を強奪。

三河国守護・細川成之や、室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官であった松平氏や戸田氏が出陣して鎮圧しました。

ちなみに「浪人」は江戸時代以降の表記で当時は「牢人」の方が相応しいです。

 

一揆

「一揆」というと、江戸時代の代官の圧政に対して農民が団結して立ち上がる「百姓一揆」のイメージが強いのですが、「室町時代は一揆の時代」と言われるほど、数多くの「土一揆」がありました。

「一揆」とは、本来「揆を一(いつ)にすること」です。
「何らかの理由により心を1つにすること、同心すること、一致団結すること」であり、実は「一揆を起こす」は不正確な表現で、正確には「一揆を結ぶ」と言います。

時代を経ると「一味同心した人々が、全員に共通する目的を達成しようと(武力行使を含む)1つの行動をとること」と意味が変わりました。

 



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