滋賀県長浜市野村町にある史跡姉川古戦場/photo by 立花左近 wikipediaより引用

明智軍記 浅井・朝倉家

真柄直隆と光秀の意外な繋がり!? 超わかる明智軍記 第2話後編【戦国怪力武将譚】

明智光秀の足跡を『明智軍記』をベースに振り返る本連載。

第2話のテーマは

でした。

第2話後編となる今回は

真柄直隆
・真柄三人衆

に注目していきたいと思います。

朝倉ファンにとっては有名な真柄直隆。

実は、とんでもない巨漢かつ怪力の持ち主であり、永禄の一揆における活躍だけでなく、後には【姉川の戦い】でも武名を馳せる武将だったりします。

早速、その経歴を見ていきましょう。

 

『明智軍記』における真柄三人衆の活躍

加賀一向一揆の一部勢力を鎮圧するため、朝倉義景の命令で討伐に出向いた朝倉軍3,800。

総大将のアドバイスをしたり、自ら率いた鉄砲隊で敵を退けたり、大活躍した明智光秀とその一族は【明智三人衆】と称えられました。

メンバーは、光秀と、その従兄弟である明智光春と明智光忠です。

そしてこの戦いでもう一組、活躍したのが【真柄三人衆】でした。
真柄直隆を筆頭に以下の3名です。

真柄三人衆とは?

真柄直隆(父)
真柄隆基(息子)
隨伝坊 ※『一乗録』では「隨転坊」

彼等の活躍っぷりが『明智軍記』第2話にて、かなり派手に描かれています。

まずはとっつきやすい現代語訳で見ておきましょう。

◆『明智軍記』現代語訳

真柄直隆&隆基父子と、その従者である隨伝坊という力自慢の者が、城門の横の小門から出てきた。

真柄父子は、当時の日本では肩を並べるものがいないほどの力持ち。

父・真柄直隆が使っていた太刀は、長さ7尺8寸(236cm)という大きさの「太郎太刀」。
千代鶴国安(越前国の刀工集団・千代鶴派の開祖)という刀鍛冶が、有国、兼則(三阿弥派)などの刀鍛冶と相談して作った。

あまりの重さのため従者4人で担ぐほどの大太刀なのだが、真柄直隆は1人で軽々と振り回したという。

子の真柄隆基も「次郎太刀」という長さ6尺5寸(197cm)の大太刀を使い、弓手(ゆんで・左手)の肩に乗せて続いた。

一方の従者・隨伝坊は1丈2尺(364cm)もある樫の棒を六角に削って筋金(補強のための細長い金属)を貼り、手元は持ちやすいように丸くして、妻手(めて・右手)の脇に抱え、それぞれ名乗りをあげた。

3人は、従者もなく大勢の中に割って入り、縦横無尽に斬って回り、向かってくる一揆衆を短時間で80余人も斬り倒した。

「真柄十郎左衛門直隆、同息十郎太郎隆基、並びに、隨伝坊とて大力の強の者、以上三騎、城戸の小門より打ち出でたり。この真柄父子は、当時、日本無双の大力なりければ、常に好みける太刀は、越府の千代鶴と云ひける鍛冶、有国、兼則など云ふ者と相議して、七尺八寸に作り出せしを「太郎太刀」と号し、僕従四人して擔(にな)ひける大太刀成りしを、直隆、軽々と提(ひつさ)げたり。
子息・隆基も「次郎太刀」とて、六尺五寸有りけるを、弓手の肩に打ち懸け、二陣にぞ続きける。
隨伝は、樫(かしのき)の棒の一丈二尺有りけるを、六角に筋金渡し、手許(てもと)は丸く調(こしら)へたるを妻手(めて)の脇に携へ、声々に名乗り、人交(ま)ぜもなく、唯(ただ)三騎、大勢の中に破(わ)って入り、縦横無尽に切つて廻り、蜘手(くもで)、輪違(わちがひ)に駈け破り、八方へ追ひ靡け透き間をあらせず戦ひければ、表に進む一揆原を暫時の間に八十余人、同枕に薙ぎ伏せたり。」

信じられない長さの刀ですね。

これを振り回した真柄直隆は、体格も凄まじく
・身長196cm
・体重252kg
だったそうです。

横綱の白鵬が【192cm・155kg】で、元横綱の曙が【203cm・233kg】ですから横綱級、いや、それ以上の巨漢です。

この辺りの表現の誇張が『明智軍記』の信憑性を疑わしくしている一因かと思われるのですが『一乗録』にも同様の記録が記されています。

 

『一乗録』における真柄三人衆

記録とは永禄の一揆に関するものではなく、将軍就任を志して越前にやってきた足利義昭にお披露目した時のものです。
ともかく見てみましょう。

◆『一乗録』現代語訳

朝倉義景を頼って一乗谷に来た足利義昭が言った。

「一乗には真柄直隆、真柄隆基、随転坊という世に有名な力持ちがいると聞いている。ぜひ、見たい」

そこで真柄直隆を連れてきたところ……。
直隆は、8人がかりで担いできた、長さ9尺5寸(356cm)、柄の長さ2尺(76cm)の「太郎太刀」と、6人がかりで担いできた「次郎太刀」を抜き、両手でふるい、庭を周回した。

まだ18歳の真柄隆基は、3人がかりで運んできた、黒い鶏の卵のような石(周囲152cm)を持ち上げてもてあそび、空へ1~2丈(3~6m)手毬のようにおおよそ10回投げ上げた。

随転坊は庭を見回して、長さ1丈5~6尺(4.5~4.8m)、直径1尺3寸(50cm)程の(将棋の駒を作るのに使う)シロツゲを見つけると、根本付近でじり切って、枝を払い、両手で10回程回した。

皆、驚いて騒ぐ程、素晴らしい見世物だった。
既に日が西の山に傾いていたので、足利義昭は、駕籠に乗って御所(安養寺)に帰った。

※『一乗録』
公子曰、一乗有真柄直隆者、強力無双、善用大太刀、子・隆基、及び、其客・隨転、皆、有盛名于世。請召之。公子乃召之。公子曰、聞汝等、盛名、顕于一世。其為我効其伎矣。直隆、拝命、願令取太刀。奴八人、荷擔而至。長九尺五寸、柄二尺、曰、「太郎太刀」、六人荷擔、曰、「次郎太刀」。直隆、乃、抜両太刀、両手揮之、周旋庭中数回。隆基、年十八、使三人取庭中所有之試刀石、黒色状如鶏卵、畏四尺許、挙弄之。投之于空中、一、二丈、軽如手毬、凢十余次。隨転、視庭際列樹中有白黄楊、長一丈五、六尺、径一尺三寸許、就而取之、自根際捻断之、摘去其枝葉、双手揮之十許回。一坐驚騒以為偉観。既日傾西山、公子、催駕而帰。

ここまで来ると横綱を通り越えて、もはやヤンマガ『彼岸島』の師匠・青山龍ノ介クラスですね……。

※身長262.5cm・体重198kgで特技は丸太振り

しかし、その真柄直隆も、織田徳川家との合戦【姉川の戦い(1570年)】で討たれてしまいます。

一体どのような戦況で討たれたのか?
そちらも併せて見ておきましょう。

 

撤退戦の途中で真柄親子が引き返し……

【姉川の戦い】とは、元亀元年(1570年)6月28日に近江国浅井郡で行われた合戦です。

姉川の河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で

織田・徳川連合軍25,000
vs
浅井・朝倉連合軍13,000

が激突。

兵数については異説ありますが、いずれにせよかなりの規模の野戦でした。

もともとは朝倉義景の越前へ攻め込んだ織田信長を、同盟国の浅井長政が裏切り、信長絶命まであと一歩のところまで追い込んだのが発端。

豊臣秀吉や明智光秀らによる撤退戦【金ヶ崎の退き口】がうまくいき、長政の裏切りによって浅井&朝倉に挟撃された織田軍は命からがら京都へ戻ることができたのでした。

帰国した織田信長は、すぐさま挙兵したのです。

金ヶ崎の撤退戦から約2ヶ月後。
2万の兵プラス徳川軍5000を率いて、浅井長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)へ侵攻します。

一方の浅井軍5000も、同盟者の朝倉軍8000と共に城を出て、両軍は、小谷山の麓の姉川を挟んで向かい合い、ついに合戦へと発展しました。

開戦当初は浅井・朝倉連合軍が有利に進めました。

しかし、隊列が長く伸びてしまったところを、徳川軍の榊原康政隊に横槍を突かれ、隊列が崩壊。
敗色が濃厚になると、浅井・朝倉連合軍は撤退を始めます。

小谷城へ逃げる浅井・朝倉連合軍、追う織田・徳川連合軍。

敵に背中を見せる方は不利であり、追う方が有利なのは言うまでもありません。
浅井・朝倉連合軍は小谷城まで逃げ切れるか?

この窮地を「死に場所」と選んだのが真柄直隆でした。

直隆は撤退の途中で引き返すと、織田・徳川連合軍へ突入。
そのまま討たれた――そう聞いた息子の真柄隆基も、同様に引き返して織田徳川軍に突入し、父の直隆同様に討ちとられました。

真柄直隆の戦いぶりは小瀬甫庵『甫庵信長記』に詳しいです。
以下、原文&現代語訳を確認してみましょう。

 

小瀬甫庵『甫庵信長記』での直隆は?

『甫庵信長記』には「真柄十郎左衛門父子三人」とあります。

「真柄三人衆(真柄直隆&隆基親子、隋伝坊)」の間違いかと思いますが、「父・真柄直隆、弟・直澄、子・隆基」の3人だという説もあります。

ともかく現代語訳から見ていきましょう。

◆『甫庵信長記・姉川の戦い』現代語訳

真柄直隆は5尺3寸の太郎太刀を振り回しました。
すると40~50間(72~90m)四方の地面が掘り起こされます。

敵を追い詰め、追い廻して、数十人切り伏せた真柄直隆。

「われこそは真柄十郎左衛門尉なり。誰か勝負をせぬか!」
と叫ぶと、
「われこそは徳川家康が郎党・匂坂式部さぎさかしきぶなり。参る」
と言って槍で立ち向かい、真柄直隆を刺しました。

槍で刺された真柄直隆はそれをものともせず、自らの太郎太刀を振るうと匂坂式部の手の甲を斬り、匂坂式部は槍を落としました。

兄のピンチを悟った弟・匂坂五郎次郎がすかさず助けに来ましたが、相手になりません。
一説には真柄直隆に討たれたとも言います。

すると今度は、弟・匂坂六郎五郎が来て、十文字槍で真柄直隆を倒しました。

力尽きた真柄直隆は、最期の言葉を残します。

「今はこれまでなり。真柄が首、取って男子(をのこ)の名誉にせよ」

これを聞いた六郎五郎は、兄・式部に声をかけます。

「最初に槍を入れたのは兄者である! 首をとって徳川家康に見せて手柄にせよ!」

「手の甲をこのように斬られ、他にも傷があるので無理だ(力が入らない)」

かくして六郎五郎が首を落としました。

※史料は記事末に掲載

真柄直隆の武名は隣国へも知られていたのでしょう。

この将を討ち取ったことは武士の誉であり、現在、匂坂城址碑にその活躍が刻まれています。

匂坂城址碑

こうした真柄直隆の奮闘もあってか。

追手を振り切った浅井・朝倉連合軍は、無事に小谷城へと戻りました。

姉川の戦いは織田・徳川連合軍の勝利です。

姉川の戦いが雌雄を決する大戦にならなかった意外な理由【戦国野戦譚】

続きを見る

とはいえ、浅井長政を討ち漏らしております。
長政らが逃げ込んだ先の小谷城は、非常に堅強な山城で、容易には攻め難く、陥落させるのはそれから3年後、天正元年(1573年)【小谷城の戦い】まで待たねばなりません。

 

「太郎太刀」のレプリカを実際に持てる!

匂坂兄弟に討ち取られた真柄直隆。

青木一重に討ち取られた息子の真柄隆基。

彼等の忘れ形見でもある巨大な刀は現代でもご覧いただけます。

「太郎太刀」は熱田神宮。
「次郎太刀」は白山比咩神社(石川県白山市三宮町・全国の白山神社の総本社)に奉納されたのです。

私は、熱田神宮の宝物館で「太郎太刀」を拝見しましたが……本当にデカい!

実際に使う刀ではなく、奉納のために作った刀だと思ってしまうほど。
白山比咩神社の「次郎太刀」は、まだ見たことがありません。

先日、一乗谷に行ったとき【朝倉駒※注3】で将棋をさしている人や、甲冑のある家に「太郎太刀」の実物大写真が展示されていたのを見ました。

※注3 朝倉館の外堀から出土した現在の小将棋よりも駒が1つ多い将棋。王将の前に「酔象(太子)」を置く

そこで、知ったかぶりして
「これって太郎太刀の写真ですよね。熱田神宮で本物を見たことがあります」
と言ったら、ガイドさんの顔色が変わりました。

しまったー、地元民の心を逆なでしてしまったー!
一乗谷では、白山比咩神社に奉納された方が「太郎太刀」だと信じられており、その写真だったのです。

「太郎太刀」を見てみたい。
それだけでなく、実際に持ってみたいという勇者はおられますか?

重さは1貫200匁といいますから、4.5kgです。

実は、浅井家本拠地だった小谷城近くの道の駅「浅井三姉妹の郷」(滋賀県長浜市内保町)で、模擬刀の「真柄太刀」が展示されています。

刃長187cmで全長は282cm、さらには反り3.4cm、元巾4.5cm、重さ4.5kgというもので、写真撮影はもちろん持つことも可能です。

挑戦された方はご一報くださいね。

次回の第3話は
「明智光秀鉄砲誉事付諸国勘合事」
(明智光秀鉄砲誉(ほまれ)の事。付、諸国勘合の事)
です。お楽しみに (^^)/~~~

文:戦国未来

※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです

※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください

 

明智光秀略年表

この年表は65回の連載が終わると完成します。

元号年(年齢) 起きたこと
享禄元年(1528年)1歳 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話)
弘治2年(1556年)29歳 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話)
永禄5年(1562年)35歳 【永禄の一揆】において、大将にアドバイスし、鉄砲を使って鎮圧に貢献する(明智軍記 第2話)

 

史料 小瀬甫庵『甫庵信長記』「姉川合戦之事」

◆小瀬甫庵『甫庵信長記』「姉川合戦之事」

さしもの強勢も、叶ひ難くや思ひけん、徳川殿に追に立てられ、蛛子を散らすが如く落ち行けるを、田河、虎御前迄追ひ討ちに討ちて行く程に、真柄十郎左衛門父子三人、前波新八郎、舎弟・新太郎、小林瑞周軒、魚住龍文寺、黒坂備中守など云ふ兵ども、緫角(あげまき)を見せしとや思ひけん、引き返し、力を尽くして討死す。

中にも真柄は大力の剛の者なれば、五尺三寸の大太刀を真向に差しかざし、取つて返し、四方八面に切りて廻はりければ、四、五十間四方は小田をすき返したるが如くにぞ成りたりける。彼れに渡し合はせ、是に渡し合はせ、追ひ詰め、追ひ廻し、数十人切り伏せ、「是は真柄十郎左衛門尉と云ふ兵也。志の者のあらば、引き組みて勝負をせぬか」と云ふ声を聞きて、「是は徳川が郎等・匂坂式部と云ふ者也。参り合はん」と云ふ儘に、手鑓、堤げ渡し合はせ暫く戦ひ、草摺(くさすり)の外を一鑓撞きたりけるを、屑(ものの)数ともせず、大太刀を以て打ち払ひ、払ひ切りに切りたれば、匂坂の甲の吹き返しを打ち碎(くだ)き、余る太刀にて持ちたる鑓を打ち落としたるに、式部が弟・匂坂五郎次郎、助け来て、真柄に渡しはせ戦ひけるが、余りに強く撃つ程に、蜻蛉に請(う)け流す所を拝(をが)み切りに切つて、勾坂が太刀を鎺(はばき)本よりづんと切つて落し、余る太刀にて弓手の股を、薙ぎ据へたる太刀の柄ばかり持つて、既に危(あやう)く見へける所を、匂坂六郎五郎、是を見付けて、透間もなく助け来るに、郎等の山田宗六、「我が主を討たせじ」とや思ひけん、太刀を真向に翳(かざ)し、進んだり。真柄、屹度(きつと)見て、「志の奴原、惜しくはあれ共、いで物見せん」と云ふ儘に、持ちたる太刀を取り直し、「えいやつ」と打ちたれば、唐竹割りに打ち割られて、弓手、妻手へ割り分けたり。六郎五郎、「得たり」とて、十文字の鑓を以て懸けたるに、真柄、いとど打物の達者なれば、暫くは受け流し、戦ひしが、遂に掛け倒されけるに、最後こそ神妙なれ。起き上がり、「今は是迄也。真柄が首、取つて男子(をのこ)の名誉にせよ」とぞ云ひたりける。六郎五郎、式部に向かつて、「始め鑓付けられたる事なれば、御辺、首取つて大将の見参に入れよ」と云ひけるが、式部、振り仰ぎて、「真柄が太刀にて、角(かく)甲を碎れ、薄手少々負うたれば、相叶はざるぞ。汝、取つて参らせよ」と辞しければ、走り懸り、首を打ち落としてけり。

真柄が嫡子・十郎も返し合はせて戦ひけるが、郎等、馳せ来て、「父は、斯く討たれ給ひたる」と告げければ、涙をはらはらとこぼし、早、打太刀も弱けれ共、猶、敵を打ち払ひ、「父は何れの辺にて討たれ給ひけん。同じくは一所に」と認行(とめゆく)処に、青木加賀右衛門尉が嫡男・青木新右衛門尉、引き付けて、「音に聞こへたる真柄殿、何(いづく)へか逃げ給ふぞや。引き返し勝負あれ」と呼ばり懸けし処に、十郎、「逃げるとは、何事ぞ。憎い男子(をのこ)の言(ことば)哉。いで物見せん」と打ち向かひ、「父には劣りし太刀なれど、受けて見よ」と云ふ儘に、四尺七寸、氷の如くなるを打ち振りて懸りしに、青木が郎等、駈け塞がりて進みしを、太刀振り上ぐるよりも早く細頸中に打ち落とし、勇みに勇んだ勢ひは、羅刹国の鬼王が怒り共謂つべし。新右衛門尉、是を見て、十郎に渡し合はせ、鎌鑓を以て懸けたるに、運こそ尽きてありけめ。妻手の肘を掛け落され、今や角とや思ひけん、西に向かひて尋常に首を請けたるに、「吾は青木の某ぞかし。相手に於ひて不足なし」と云ふも果てず、頸を打ち落とし、太刀の鋒(きっさき)に指し貫き、徳川殿の御前へぞ参ける。

 



-明智軍記, 浅井・朝倉家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.