明智軍記 浅井・朝倉家

朝倉氏の歴史は意外と長い ご先祖様は孝徳天皇?【戦国 明智軍記第3話】

明智光秀の生涯を著した『明智軍記』。

江戸時代に成立した軍記物(小説)であり、学術的には認められておりませんが、光秀作品を描くときには必須の書物であり、ならば解読してみよう!という当連載も第3話となりました。

今回のテーマは「明智光秀鉄砲誉事付諸国勘合事」で主に3つのテーマに分かれています。

先に要点だけ記しておきますと……。

朝倉氏の歴史は長い!

・光秀の鉄砲術は見事である!

・光秀は全国を視察していた!

となっております。3つのテーマがバラバラですので、今回も前編・中編・後編の3回に分けてお送りさせていただきますね。

 

孝徳天皇のひ孫から滅亡まで32代続いた名門

斎藤道三と、その子・斎藤義龍の争いの余波で、美濃を追い出された明智光秀。

越前の朝倉氏を頼って落ち延びると、そこで【永禄の一揆】に参戦することになり、いとこの明智光春、明智光忠らと大活躍します。

永禄の一揆で光秀ら明智三人衆が躍進!超わかる明智軍記 第2話前編

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彼等は【明智三人衆】と呼ばれ、この一揆を機に光秀は朝倉氏に士官することになりました。

では、その朝倉氏とは何者か?
というのが第3話の前半部分になります。

『明智軍記』の原文については以下の記事をご覧ください。

◆『明智軍記』現代語訳と原文 第3話「明智光秀鉄砲誉事付諸国勘合事」

あらためまして……朝倉氏とは何者か?

『明智軍記』によると、その祖は日下部(くさかべ)氏の祖でもある日下部荒島と言います。

荒島は第36代・孝徳天皇の「ひ孫」ですね。
※『朝倉始末記』『朝倉系図』『群書類従』に所収「日下部系図」等

かなり長くなりますが、その系図を全て記しておきましょう。

【朝倉氏系図】
孝徳天皇
有馬皇子
表米親王
①日下部荒島【日下部氏】
②治長
③国富
④国守
⑤乙長
⑥礒主
⑦貞禰
⑧利実
⑨用樹
⑩蕃在
⑪親安
⑫弘佐
⑬佐晴
⑭朝倉宗高【朝倉氏】
⑮朝倉高清
⑯八木安高
⑰八木高吉
⑱朝倉高実
⑲朝倉高景
⑳朝倉高資
㉑朝倉広信
㉒朝倉広景【越前朝倉氏】
㉓朝倉高景
㉔朝倉氏景
㉕朝倉為景(貞景)
㉖朝倉教景
㉗朝倉教景(家景)
㉘朝倉孝景(教景、敏景)【一乗谷朝倉氏】
㉙朝倉氏景
㉚朝倉貞景
㉛朝倉孝景
朝倉義景
※同姓同名の人物が複数いるので注意

ただし、現在この系図は否定され、荒島は「第9代・開化天皇の皇子・彦坐王(日子座王)を祖とする多遅摩国造(但馬国造)・大多牟坂王の後裔」とされています。
※『多遅摩国造日下部宿禰家譜』(赤渕神社文書)等

開化天皇は、実在性に乏しいとされる「欠史八代」最後の一人。
その子供である崇神天皇以降は、実在した可能性が高いとされています。

いずれにせよそこに繋がるのが事実だとすれば、朝倉氏は相当な歴史を持つ古代氏族となりますね。

 

第28代孝景から一乗谷へ移り住む

朝倉姓の始まる第14代朝倉宗高に注目してみます。

平安末期、但馬国養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉)に住した宗高が「朝倉」と称し、第22代朝倉広景から越前国に移住しました。

場所は越前国坂南郡本郷黒丸(現在の福井県福井市黒丸町)。
ここの黒丸城に住み、越前国守護となった第28代朝倉孝景(越前朝倉氏7代)は、越前国足羽郡一乗谷村に一乗谷城(福井県福井市城戸ノ内町)を築きます。

なお、この朝倉孝景は、教景→敏景→教景→孝景の順で改名しており、入道して英林を名乗りました。

後に織田信長に攻め込まれ、朝倉氏滅亡の地となった一乗谷。
文明3年(1471年)5月21日、に黒丸城から移り変わったことが始まりとされています。

学説では「文明3年よりも前に一乗谷に移っていた」という考え方のようですが、

・朝倉孝景
・氏景
・貞景
・孝景
・義景

という5代が続き、その期間は朝倉義景が自害した天正元年(1573年)8月20日までの102年間、本拠地でありました。
※資料:『続応仁後記』「公方家御官位御昇進事付細川禅門所々潜行事」

最後に「越前国守護」を確認して、第3話【前編】を締めとさせていただきます。

主に斯波氏が請け負っておりましたが、応仁の乱で混乱の越前を治めて、1471年朝倉孝景から越前守護に就任することとなりました。

【越前国守護】
1336年~1341年:斯波高経
1346年~1350年:細川頼春
1352年~1366年:斯波高経、斯波氏経、斯波義種
1366年~1379年:畠山義深
1379年~1380年:畠山基国
1380年~1396年:斯波義将
1398年~1418年:斯波義重
1418年~1433年:斯波義淳
1433年~1436年:斯波義郷
1436年~1452年:斯波義健
1452年~1460年:斯波義敏
1460年~1461年:斯波松王丸
1461年~1466年:斯波義廉
1466年~1466年:斯波義敏
1466年~1471年:斯波義廉
1471年~1481年:①朝倉孝景
1481年~1486年:②朝倉氏景
1486年~1512年:③朝倉貞景
1512年~1548年:④朝倉孝景
1548年~1573年:⑤朝倉義景

※西ヶ谷恭弘編『国別 守護・戦国大名事典』(東京堂出版)の「越前国守護年表」(pp.156-157)参照

次回の第3話【中編】は
「光秀の鉄砲術」
です。お楽しみに (^^)/~~~

文:戦国未来

※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです

※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください

 

明智光秀略年表

この年表は65回の連載が終わると完成します。

元号年(年齢) 起きたこと
享禄元年(1528年)1歳 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話)
弘治2年(1556年)29歳 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話)
称念寺領内に妻子を預け、諸国武者修行に出発(明智軍記 第3話)
永禄5年(1562年)35歳 6年間の諸国武者修行を経て帰国(明智軍記 第3話)
【永禄の一揆】において、大将にアドバイスし、鉄砲を使って鎮圧に貢献する(明智軍記 第2話)
永禄6年(1563年)36歳 4月19日、鉄砲演習。この結果、鉄砲寄子100人を預けられる(明智軍記 第3話)

 



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