浅井・朝倉家

磯野員昌とは~織田vs浅井のキーマンだった猛将の生涯【戦国浅井家臣譚】

信長の生涯を描くとき、避けて通れないのが近江・浅井家との対立。
信長が義弟の長政に裏切られ、絶体絶命のピンチに陥りながら奇跡の生還を果たし、それから激しい戦いを繰り広げていく姿は、まさしく手に汗握る展開です。

そんな戦国時代の代表とも言える攻防戦でキーマンとなる武将がおります。

磯野員昌(いそのかずまさ)――。

浅井長政の片腕として知られるこの武将。
合戦では同家の先陣を切る勇将として知られ、人気漫画『センゴク』でも大きく注目された一人ですが、いったい磯野員昌とはいかなる人物なのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 

浅井軍の先鋒を任された勇将・磯野員昌

磯野員昌は大永三年(1523年)に生まれ、浅井氏の家臣として働いていました。

生家の磯野氏は、元々京極氏の家臣でしたが、浅井長政の祖父・浅井亮政(すけまさ)の時代に仕えるようになり、員昌の父・磯野員宗の時代に佐和山城(彦根市)に入っています。

何らかの事情があったのか。
員宗の後はその弟(員昌の叔父)である員清が一度家督を継ぎ、さらにその後、員昌が当主になっております。

佐和山城は六角領との境目に近いため、自然と磯野氏と対峙し、そして員昌は対六角氏との戦で活躍するように。
武功と信頼を積み重ね、浅井軍の先鋒を任されるほどにまでなりました。

主君である浅井長政が織田信長と義兄弟となり、離反してからは、対織田戦でも活躍します。

浅井氏時代の員昌について最も有名なのは、元亀元年(1570年)における【姉川の戦い】での奮戦です。

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合戦当時、織田軍は信長本陣まで十三の部隊が防備を固めていたと言います。

猛将・員昌はこれを十一番目まで打ち破り、一時は信長の身も危ぶまれるほどだったとか。

このときは西美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)や、朝倉軍を押し返した徳川軍が駆けつけたとされ、員昌は信長を討ち取れませんでした。
もし彼らの増援が遅ければ、員昌隊が信長の首を挙げる……なんて大波乱もあったのかもしれません。

 

員昌と長政を離別させるのに必死だった織田軍

磯野員昌のこのエピソードは「十一段崩し」と呼ばれ、その武勇を称えるものですが……実はこの話、元禄年間に成立した『浅井三代記』が初出。
後世の脚色が含まれている可能性がかなり高いです。

しかし、逸話とは元ネタがなければそもそも生まれません。

・員昌が日頃から勇敢な武将であり、信長を追い詰めてもおかしくないと思われていた
・それが時を隔てた元禄年間になっても伝わっていた

こういったことから生まれた話なのでしょう。

事実、姉川の戦いの後、織田軍は員昌と長政の間に疑心暗鬼を生じさせるべく、情報戦をしかけています。
”十一段崩し”そのままの出来事がなかったとしても、織田軍にとって「員昌は捨て置けない存在である」と判断されたのでしょう。

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織田軍は「員昌は既に裏切り、織田軍と内通している」という風説を流しました。
よくある内容ですが、この時点で員昌の佐和山城と浅井氏の本拠・小谷城との連絡が寸断されてしまっていたため、双方ともに確かめる手段がなかったようです。

これにより長政は「員昌は既に裏切った」と信じてしまい、人質として小谷城にいた員昌の母を処刑してしまったとも。
本当に離反しているかどうかを確認する前に人質を始末してしまっては、人質の意味がほとんどなくなってしまうのですが……。

一方の員昌は、孤立する中でも織田軍相手に戦おうと、兵糧や水の確保をしていました。

しかし何事にも限度というものはあります。
織田軍による佐和山城の包囲は、姉川の戦いの直後(元亀元年7月)から実に半年以上も続いたのです。

 

主君から疑われて人質を殺され……

織田軍がその下を去ったのは翌元亀二年(1571年)2月のこと。
包囲が解かれたのではなく、員昌が降伏したため、戦いが終結したのです。

主君から疑われて人質を殺され、孤立しながらも持ちこたえたのですから、員昌の武将としての能力は申し分ないものだったといえるでしょう。

籠城戦というのは、基本的に「援軍が来ると思うからこそ」持ちこたえられるものです。
逆に、そうでなければ、城内の戦意を保てない。

このときの佐和山城のように、援軍の見込みもないどころか、既に主君にも疑われていた状況で、それでも半年以上を過ごすのは、それだけで難しいこと。

やはり磯野員昌が「日頃から城内の統率をしっかり取っており、家臣たちにも信頼されていた」という何よりの証明でしょう。
味方につければ、これほど頼もしいこともありません。

そのため、信長は降伏してきた員昌を、非常に高く評価しました。
佐和山城こそ信長の信頼する腹心・丹羽長秀に与えられましたが、その代わりに近江の高島郡が員昌に与えられます。

 

重要エリアを任されていた員昌

実は当時、琵琶湖の周辺には織田家の主要な武将が数多く配置されていました。

岐阜から京都への上洛ルートにもなっており、六角氏だけでなく浅井氏あるいは他の諸勢力から狙われやすいポジションです。
ゆえに以下のような信頼の篤い重臣たちが置かれました。

・横山  木下藤吉郎
・佐和山 丹羽長秀
・安土  中川重政
・長光寺 柴田勝家
・永原  佐久間信盛
・宇佐山 明智光秀
・高島郡 磯野員昌

高島郡は現在の滋賀県高島市とほぼ同じで、琵琶湖の北西側です。

岐阜を本拠とする信長からすれば、最も目が届きにくいエリア。
また、浅井氏の同盟相手である朝倉氏の領地とも、比較的近いところです。

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穿った見方をすれば、いつ浅井・朝倉方に出戻ってもおかしくはありません。
そこを任せているあたり、信長は員昌の能力と人柄を信頼したのでしょう。あるいは、「やれるものならやってみろ」と発破をかけたのかもしれませんが。

 

織田家臣となっても忠実に働いていた

もちろん、無条件ではありません。
員昌は、信長の甥・津田信澄を養嗣子として迎えさせられています。

信澄はかつて信長と家督争いをした弟・織田信勝(信行)の息子です。本人が事件当時幼かったこともあり、親族かつ家臣として信長に仕えていました。

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員昌の降伏より前から高島郡に信澄が行っていたようですので、現地の地ならしを員昌に手伝わせ、将来的には信澄に……という意図があったのかもしれません。

織田家臣となってからの員昌は、忠実に働きました。
代表的な出来事としては、

・天正元年(1573年)9月 杉谷善住坊の捕縛(信長公記101話)

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・天正三年(1575年)8月 越前一向一揆戦(信長公記125話)

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これらに員昌が参加していたことがわかっています。
詳しくはそれぞれの記事をご参照ください。

 

突如として織田家を出奔 行方は……

この裏で、信澄への権力移譲も企図されていたと思われます。
なぜかというと、天正五年(1577年)あたりから、信澄の名で領内の寺院へ領地を安堵する書状が発行されているからです。

員昌はこのことが我慢ならなかったのか。
果たして真意は不明ながら、天正六年(1578年)2月3日、突如として織田家を出奔してしまいます。信長からの叱責があったからともされていますが、細かな事情は記録されていません。

織田家が捜索をした形跡がないことからすると、何か許しがたいこと、あるいはその後の戦略に影響を与える内容だった可能性はありますね。

そうなるとやはり信澄への家督譲渡を迫られ、員昌が拒否したという線でしょうか。

高島郡は信澄の領地になっておりましたが、彼が磯野氏を名乗った形跡はありません。
領地は信長の意向でどうとでもなっても、名字はそうもいきませんので、員昌にとっては領地より名を譲ることが許しがたかった……と考えれば、辻褄は合います。

出奔後の員昌の行方は、明らかになっていません。

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同説が真実であれば、そのまま八年ほど穏やかに過ごし、天正十八年(1590年)9月10日に亡くなったとか。
それとは別に、磯野氏発祥の地・伊香郡高月に蟄居していたという説もあります。

員昌ほどの有能な武将を、他の大名や秀吉が捜索しようとしなかったのも、少々気にかかるところですね。

大名家としての磯野氏はここで終わりましたが、息子たちが血筋を伝えています。

員昌の息子・磯野行信は、その後、石田三成藤堂高虎に仕え、家を残しました。
また、娘が備中松山藩初代・小堀正次に嫁ぎ、茶人としても名高い小堀遠州(政一)を産んでいます。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

 



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