明智軍記 浅井・朝倉家

浅井家と織田家の婚姻は「美濃攻略」が目的だった? 明智軍記9話

織田信長の生涯を振り返ったとき。

最初のターニングポイントが【桶狭間の戦い】ならば、その次に大きな起点となったのが美濃攻略でしょう。

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稲葉山城を陥落し、岐阜城としてから、足利義昭を奉じての上洛を果たしているのです。

さらにはほぼ同時期に浅井家とも同盟を結んだとされ、妹・お市の方浅井長政に嫁がせてもいます。

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この浅井長政と信長は、当初、蜜月の仲でありながら、長政の突然の裏切りにより、その後、長きに渡って戦いを繰り広げたのは有名な話ですね。

明智軍記』では

「信長公妹被嫁浅井事付斎藤龍興落居事」

として、斎藤龍興と一緒に記されています。

そこには何がどう書かれているのか?

原文はこちら(→link)でご確認していただき、本稿ではその内容をマトメて見て参りましょう。

 

市と長政の政略結婚

織田信長の妹で、戦国一の美女とも言われる「お市の方」。

その名は複数伝わっており、他に以下のようなものがあります。

市姫
於市の方
小谷の方
小谷殿

彼女は「江北=近江国の北部地方」を領する浅井久政の嫡男・浅井賢政と政略結婚をし、夫の浅井賢政は浅井長政を名乗るようになりました。

後に、信長を裏切り、以来、長きに渡って織田家を苦しめたことで知られるこの長政。

実は名前の変遷には理由があり、

「賢」は六角義賢

「長」は織田信長

からの偏(へんき)でもあります。

つまり「六角氏→織田氏」へと乗り換えた一つのシンボルでもあったんですね。

 

婚姻の目的と時期は?

ではなぜ織田と浅井の両家は、政略結婚を推し進めたのか?

実施時期と目的については、主に以下の三説があります。

①織田信長が美濃国を攻略するため、永禄10年以前に結婚した
※『明智軍記』

②永禄10年に織田信長が美濃国を平定したとき、隣国同士で同盟を締結するために結婚した

③足利義昭の上洛ルートを確保するため、永禄10年以後に結婚した

本連載のテーマである『明智軍記』では「織田家による美濃国攻めの下準備」が結婚の目的だったとしています。

もともとは丹羽長秀による助言がキッカケであり、長秀は信長へこう進言しておりました。

「江南(近江国南部地方)の佐々木六角氏と昵懇(じっこん)の間柄になれば、織田方へ寝返る美濃国の国衆が次々と現れ、美濃国を攻略できるでしょう」

むむっ?
お市の方が嫁入りしたのは江北の浅井氏です。

それがなぜ江南の佐々木六角氏という話なのか?

『明智軍記』によると、丹羽長秀がプッシュしていたのは確かに佐々木六角氏だったのですが、結婚適齢期にある男児がおらず、代わりに浅井賢政を推挙され、浅井久政に打診してみたところ大喜びだったため、晴れて結婚にまでたどり着いたとのことです。

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なお、このときの佐々木六角氏について、明智軍記では「佐々木義秀」と記されています。学者さんによると、この人物は架空の存在で、実際は観音寺城主の六角義賢(承禎)ではないかとのことです。

次に『明智軍記』にある近江浅井氏の出自を見てみましょう。

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