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【明智軍記9話】
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近江浅井氏の出自
『明智軍記』では、浅井氏の出自について、公家・藤原公綱の子・重政が、永正年間(1504-1521)に近江国浅井郡小谷庄へ移住。
以降「浅井」と名乗って公家を離れ、武家になったとしています。
当主の流れは以下の通り。
藤原公綱
│
浅井重政
│
◯◯
│
◯◯
│
賢政
│
◯◯
│
亮政
│
久政
│
長政
こちらはあくまで軍記物(小説)である『明智軍記』の記述です。
一般的に浅井家当主は以下のような変遷だと考えられています。
藤原公綱
│
浅井重政
│
忠政
│
直政
│
亮政
│
久政
│
賢政(長政)
【絶家】
藤原公綱と浅井重政というのは共通しておりますね。
そもそもは藤原公綱が嘉吉年間(1441-1444年)に勅勘(天皇による勘当)を蒙って京極氏預けとなり、京極領の浅井郡丁野村に蟄居していた際に、物部氏の娘との間に儲けた子が浅井重政だとします。
とりわけ戦国大名として著名な亮政、久政、長政は「浅井三代」と言われますね。
興味深いのは「浅井木下系図」でしょうか。
浅井重政には子が2人いて、兄・忠政が浅井家を継ぎ、弟は出家して昌盛法師になったとしています。
そして、昌盛法師は還俗して尾張国中村に住み、中村国吉と名乗った後に木下高泰の娘婿となって木下国吉となり、そのひ孫の木下元吉(佐々木義秀からの偏諱で「秀吉」)が豊臣秀吉だというのです。
浅井重政
│
昌盛法師(中村→木下国吉)
│
吉高
│
昌吉
│
元吉(秀吉)
なかなか驚きな説ですね。
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豊臣秀吉が浅井一族だったので、織田信長の妹・お市と浅井長政の結婚を斡旋したり、【金ヶ崎の退き口】では、浅井長政謀反の責任をとって、殿(しんがり)を務めたとのこと。
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なお『新東鑑』では、こんな記述があります。
『江源武鑑』に『佐々木義秀の諱を授かり、秀吉と名乗り給ふ』とあり。かの書は、偽作なれば採るに足らず。
「“秀”の字を佐々木義秀から貰ったのはウソだよ」って書かれています。
では、どんな由来だったのか? というと、こんな内容です。
伊勢国へ侵攻したときに織田信長が「朝比奈義秀にも劣らない」と褒めたので、朝比奈義秀の「秀」から「秀吉」に改めた。
朝比奈義秀とは鎌倉時代の武将で、和田義盛の第三子です。
泳ぎが得意で怪力と伝わっており、秀吉のイメージとはちょっと合わないんですけどね。
信長の美濃国平定
美濃を制する者は天下を制す──。
稲葉山城の開城(「稲葉山城の戦い」)の時期については諸説あります。
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太田牛一『信長公記』には「8月15日」とだけあり、何年なのか記されていません。
通説は永禄10年(1567年)8月15日ですが、『明智軍記』では永禄8年(1565年)8月15日のことだとしています。
『明智軍記』によれば、織田信長は、空き城となった稲葉山城に織田信包、柴田勝家、丹羽長秀を入れ置き、斎藤軍の残党を退治して美濃国を平定すると、永禄9年3月15日に稲葉山城へ入城。
「井ノ口」の地名を「岐阜」、「稲葉山城」を「岐阜城」に変えたとしています。
ちなみに岐阜県公式HP(→link)の「岐阜の由来」を見ておきましょう。
「岐阜」の地名は、稲葉山に居城を移した織田信長が、尾張の政秀寺の禅僧である沢彦宗恩(たくげんそうおん)が進言した「岐山・岐陽・岐阜」の3つのうちから選んだものといわれています。
沢彦和尚は、中国の「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事にならってこれらの地名を考えたといい、天下統一を目指す信長は「岐阜」の名称を選んで、稲葉山城下付近の「井口(いのくち)」を「岐阜」に改めたといいます。(「安土創業録」から)
なお、「岐阜」という地名は、信長が名づける以前から禅僧の間で使われていたとも言われ、その由来には諸説があります。
次に出典となった『安土創業録』と『政秀寺古記』を確認。
簡単にマトメますと以下のような内容となります。
①織田信長の守役・平手政秀は、生前「井ノ口」という名が良くないと言っていた。『政秀寺古記』
②織田信長は改名を軍師的存在の沢彦和尚に相談した。『安土創業録』『政秀寺古記』
③沢彦和尚は「岐山」「岐陽」「岐阜」のどれもが良い名だという。『安土創業録』『政秀寺古記』
④織田信長が諸士の意見を聞くと、満場一致で「岐阜」だった。『安土創業録』『政秀寺古記』
⑤織田信長が由来を聞くと、沢彦和尚は「(周の)文王、岐山より起こり、天下を定む」という故事があるので、「岐阜」にすれば、程なく天下が取れるであろうとリップサービスをした。『安土創業録』『政秀寺古記』
⑥喜んだ織田信長は、お礼にと、盆に金10枚を乗せて渡した。この盆は現存し、政秀寺(愛知県名古屋市中区栄三丁目)が保管している。『安土創業録』『政秀寺古記』
平手政秀とは信長の傅役であり、諫死したとして知られる武将ですね。
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斎藤龍興の落居
稲葉山の落城時、斎藤龍興は稲葉山の麓を流れる長良川を舟で下って長島へ逃げ、織田信長の長島攻めの口実を作ったとされています。
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『明智軍記』では、斎藤龍興が拝星峠を越えて越前国に入り、朝倉義景を頼ったため、明智光秀が越前国に居づらくなったとしています。
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ちなみにこの拝星峠は幕末に水戸藩の天狗党が越えた峠として知られ、「蠅帽子峠、這法師峠、拝保志峠」など複数の名称がありますね。
位置的には「岐阜県本巣市根尾大河原」と「福井県大野市下秋生」の間。
グーグルマップで確認しておきますと……。
美濃と越前の国境ですから、かなり奥深い山中となりますね。
なお、史実の斎藤龍興は、長島へ逃げた後、さらに関西へ逃亡して三好氏を頼り、最終的に朝倉義景を頼ります。
その頃にはもう明智光秀は越前国にはおりません。
そして斎藤龍興は、稲葉山城開城から6年後の天正元年(1573年)8月14日、織田家と朝倉家による【刀禰坂の戦い】で討ち死にしました。享年26。
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文:戦国未来
※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです
※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください
明智軍記による明智光秀略年表
この年表は65回の連載が終わると完成します。
元号年(年齢) | 起きたこと |
---|---|
享禄元年(1528年)1歳 | 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話) |
弘治2年(1556年)29歳 | 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話) |
称念寺領内に妻子を預け、諸国武者修行に出発(明智軍記 第3話) | |
永禄5年(1562年)35歳 | 6年間の諸国武者修行を経て帰国(明智軍記 第3話) |
【永禄の一揆】において、大将にアドバイスし、鉄砲を使って鎮圧に貢献する(明智軍記 第2話) | |
永禄6年(1563年)36歳 | 4月19日、鉄砲演習。この結果、鉄砲寄子100人を預けられる(明智軍記 第3話) |
永禄7年(1564年)37歳 | 3月22日、朝倉義景に城の立地条件を語る。(明智軍記 第4話) |
永禄8年(1565年)38歳 | 5月9日~20日、観光旅行を兼ねて、山代温泉で小瘡の湯治。(明智軍記 第5~6話) |
5月9日 雄島で漢詩を詠む。雄島に漢詩碑あり。(第5話) | |
5月10日 「汐越の松」で和歌を詠む。(第5話) |