朝倉義景

朝倉義景/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

信長を二度も包囲した朝倉義景!しかし逆に滅ぼされた41年の生涯とは

織田信長の天下統一ストーリーは抜群に面白い。

何度も大ピンチに陥っては、その都度、死地から脱出し、ドラマ以上に驚きの展開で次のステージへと進んでいく――。

その際、主役の織田家を成長させる、最も【ちょうどエエ脇役】が朝倉義景ではないでしょうか?

大河ドラマ『麒麟がくる』ではユースケ・サンタマリアさんが演じられましたように、マンガや映像作品などの朝倉義景像をピックアップしてみると……。

・顔が意地悪そう

・名門を鼻にかけている

・弱国ではない、されど強くもない

・なんでも部下にやらせようとする

・とにかく、なんかムカつく

とまぁ『こいつ倒したい!』要素がてんこ盛りになっていて、しかも、その登場が信長の京都デビュー直後!という奇跡のようなタイミングなのですから、まるで信長出世物語のために生まれてきたような御方です。

そこで本稿では、信長から見た朝倉義景ではなく、義景から見た義景――普段は脇役の彼に注目して、その生涯を追ってみたいと思います。

意外な義景像が浮かび上がってくるかもしれません。

 

1533年生まれの朝倉義景 父は名将・孝景

朝倉義景は天文二年(1533年)、朝倉氏十代当主・朝倉孝景の息子として生まれました。

母は広徳院(光徳院)という女性で、若狭武田氏の出身とされています。

戦国大名・武将によくあることで、幼少期の逸話はほとんど不明。

足跡がわかるのは天文十七年(1548年)、父・孝景の死去により家督を相続した頃からです。

当時15歳のため、従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐され、しばらくはこの有能すぎる家老に支えられます。

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当初は「延景」と名乗っていましたが、天文二十一年(1552年)に室町幕府十三代将軍・足利義輝から左衛門督と「義」の字を賜わって、「義景」に名を改めました。

この

”足利将軍家の通字である「義」”

及び

”一等官である左衛門督を与えられた”

というのは、歴代朝倉家の当主では異例のことです。

 

越前には多くの公家が避難していた

異例の通字を与えられたのは、以下のような理由があったからと考えられています。

なぜ「義」の字が与えられた?

◆孝景が室町幕府の御供衆、相伴衆に列していた

◆義景の正室に、管領・細川晴元の娘を迎えた

◆幕府側にとっても朝倉家の力が必要だった

御供衆や相伴衆というのは、将軍がどこかへ出かけるときにお供をしていく人のことです。

管領家や足利氏の血縁者など、将軍に近い人物が任命されることがほとんどでした。

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では、どうして孝景がその座につけたのか?

というと、近畿での戦乱から逃れようと、多くの公家が越前へ避難してきていたからです。

孝景の時代の越前は(戦国時代としては)比較的平穏、かつ京都からも行きやすかったことが主な理由でした。

孝景は膝下に逃げ込んできた公家たちを介して、幕府だけでなく朝廷とのパイプを持ち、社会的地位を高めることに成功。

これが次代の孝景にも引き継がれた結果が、「義」の字と左衛門督というわけです。

また、若い頃の義景は、朝倉宗滴という名臣に恵まれたことも非常に大きな幸運でした。

宗滴は、先述の通り朝倉氏の親族で、軍事にも政治にも非常に高い能力を発揮した人物です。

義景が当主になった後、宗滴存命中の越前は、他国の人間や公家からも非常に評判が高く、羨ましがられるような国でした。

しかし、宗滴に頼ったことが仇になってしまいます。

弘治元年(1555年)に宗滴が亡くなったのです。

 

親族衆の頼りはいとこの景鏡

義景が自ら政務を執るようになると、少しずつ歯車が狂い始めました。

宗滴が政治・軍事・外交など、重要な仕事をほぼ全てになっていたがために、それらを引き継げる人材がおらず、小さな問題が後を引くようになるのです。

また、義景にきょうだいがいなかったことも、立場が弱まる原因になりました。

姉妹がいれば政略結婚に利用できますし、兄弟も心強い戦力になりえます。まぁ、兄や弟の場合は、家督争いや家中分裂の可能性も出てきますが……。

いとこの朝倉景鏡(かげあきら)など、少し血縁の離れた親族はいたものの、やはり兄弟姉妹の存在は大きい。

更に悪いことに、息子にも恵まれませんでした。

最初の正室・細川氏は女子を産んだものの、産後の肥立ちが悪かったようで間もなく死去。二人めの正室として迎えた近衛稙家の娘は、美女だったものの子供ができず、実家に帰されています。

その後は朝倉氏の重臣・鞍谷副知の娘とされる小宰相を寵愛しました。

彼女は永禄四年(1561年)に義景にとって初めての息子・阿君丸(くまぎみまる)を産みましたが、本人は間もなく病死。

阿君丸も永禄十一年(1568年)に幼くして亡くなり、義景はすっかり気落ちしてしまいます。

すると義景は、二人目の側室とあんる斎藤兵部少輔の娘・小少将に溺れ、いわゆる酒池肉林に耽っていたともされています。

彼女との間には、元亀元年(1570年)に愛王丸という息子が生まれましたが……彼については後述しましょう。

義景の不運

◆子やきょうだいに恵まれなかった

永禄六年(1563年)以降は、若狭守護武田義統が統率力を失っていたため、義景が軍事的に介入し、若狭での影響力を強めていきます。

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また、永禄七年(1564年)には加賀を攻めていますが、領土的に大きな成功は治めていません。

義景、そして朝倉氏の運命が大きく変わることになるのは、永禄八年(1565年)からです。

永禄の変】が起きたのです。

 

義景は、義昭の救出から関わっていた?

将軍・足利義輝が暗殺されたこの事件。義景は武田義統からの書状で知りました。

事件が起きたのが5月19日、書状が5月20日ですので、かなり早い段階です。

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義輝の叔父にあたる大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状では、

「義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が奈良を脱出して近江国に移ることになったのは、朝倉義景の干渉による」

とされています。

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これが事実ならば、義景はおそらく事件を知らされてすぐに、将軍方の家臣と連絡をとったのでしょう。

足利義昭を救出した和田惟政細川藤孝あるいは三淵藤英らのうち、少なくとも一人と繋がっていたと見て良さそうです。

義昭は近江で還俗し、当初は六角氏の助力を受けて上洛しようとしていました。

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