文化・芸術

岩佐又兵衛(荒木村重の息子)が狂気! 浮世絵に描く母「だし」への思い

昭和3年(1929年)、神田のとある古書店。

学生街の一画で特異な匂いを放つこのエリアは、掘り出し物を求めて今も昔も数多の学者・研究者が足を運んでいるが、昭和の始めには日本文化に熱心な外国人も現れており、その日はドイツ人のルンプ氏がとある絵巻物を購入しようとしていた。

しかし……。

「これを売ってはダメだ! 外へ流出させてはならない! 大変な作品じゃないか……」

狂気の一枚に心奪われたのは、第一書房の創業者にして自らも雑誌書籍の編集を生業とする長谷川巳之吉(みのきち)

絵を描いた狂気の主は、戦国-江戸期の岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえかつもち)だった。

 

父の逃亡で母が処刑 2歳で背負った業がスゴい

岩佐又兵衛とは一体何者なのか?

この問いに対し、即座に「荒木村重の子供じゃん!」と答えられる方はそう多くはないでしょう。

荒木村重~信長に敵対し自分だけ逃亡した道糞な生き方【戦国逃亡武将譚】

続きを見る

しかし絵画史に於いてその名はつとに知られ、「浮世絵の祖」とも称される人物であります。

父親は、前述の通り、戦国大名の荒木村重。

そして母は、美女として知られた「だし」(正妻か側女かは不明)。

村重の事績については、天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻したことが最も有名ですが、今なおその理由は不明であり、ここでは詳細については省かせていただきます。

織田信長は意外と優しい!? 生誕から本能寺まで49年の史実解説【年表付】

続きを見る

いずれにせよ織田を裏切り、そして逃亡したことによって信長の怒りは頂点に達し、有岡城に残されていた女房衆123人は磔、村重の家臣やその家族たち512人も家屋に閉じ込められ、焼き殺されました。

数日後には京都の六条河原で、村重の妻子たち約30人の首も刎ねられております。

その中には、当然、村重の妻だしもいました。

しかし又兵衛だけは運良く乳母によって救い出されます。

数えで2歳のことでした。

 

京の文化に触れながら絵画の技術を磨いて育つ

乳母が逃げ込んだのは、信長の天敵「本願寺」だとされています。

東本願寺と西本願寺~二つに分裂したのは秀吉と家康のせい?【戦国宗教譚】

続きを見る

ただし、石山本願寺ではなく、京都の本願寺(東西分裂前の教団)であり、その後、又兵衛がどのような生活を送ったかは不明。諸説あり、

・信長次男・織田信雄の小姓になった

・絵師の狩野内膳重郷(父は村重の家臣)に師事した

いずれにせよ都の文化に触れながら、絵画の技術を習得していったのは間違いなさそうです。

一方で、父・村重はといいますと……。

謀反の折、家族や家臣達を見殺しにし、息子の村次(又兵衛の兄弟)を連れて尼崎の花隈城に逃げた挙げ句、信長の死後は堺へ移住。利休に教えを請いながらのうのうと茶会にも出ていたというのです。

彼に悔恨の気持ちはなかったのでしょうか。慙愧の念は? 子どもたち、家臣たちに対する詫びの気持ちは?

これは私の勝手な想像ですが、父・村重の噂を耳にするたびに又兵衛は、ドス黒い感情を腹わたに溜め込んでいったのではないでしょうか。

少なくとも快い感情を抱く理由は見当たりません。

 

文化も電流も変わる

又兵衛は京都で絵師として活躍し、洛中洛外図屏風舟木本(国宝)を製作して一息つくと、越前藩、そして江戸へ活動の拠点を移します。

と、ここで一つお尋ねします。

皆さんは、越前がどこにあるか御存知ですか?

東日本の方には特にわかりづらい、現在の福井県。若狭とセットで、オタマジャクシのような形の県(国)がそれです。

京都まで続く鯖街道があるのが尾っぽの方の若狭で、丸く大きな頭が東尋坊や永平寺のある越前。

オタマジャクシの首部分に越前若狭の国境があり、今もそこで電車の「直流交流の切り替え」が行われています。

ここで文化も切り替わる、本当にそう感じさせる土地柄なのです。

 

38歳で松平忠直のいる越前藩へ 出会ってしまった二人

又兵衛は、大坂夏の陣(1615年)が終わった頃、38歳で越前藩へ移り住みました。

それまでは豊臣家との関わりが深く、徳川の世では京都に居ずらくなったのではないかとの説もあります。

彼を呼び寄せたのは、北之庄にあった本願寺の僧と伝わりながら、その背景には「都の文化を取り入れよう」としていた越前藩主がいました。

そう…それこそが松平忠直

「妊婦の腹をかっさばく」という悪評などが際立ち、後に幕府によって追放される徳川家康の孫です。

松平忠直(家康の孫)はなぜ徳川家と上手くいかない? 幸村を討ち取ったのに

続きを見る

徳川家康(松平元康)が直面した3度の絶体絶命!75年の生涯まとめ【年表付】

続きを見る

祖父の家康に認めてもらえず、強い不満を抱いている忠直。

悲惨な出自により「絵の中でならいつでも狂える力」を秘めている又兵衛。

出会ってしまった二人……そして生み出される血しぶきブシャー!!なあの絵巻!

作品量からいうと、又兵衛が活躍したのは忠直が追放された後のこと。

忠直の弟・忠昌の時代になりますが、狂気をはらんだ会心の作「山中常磐物語絵巻」は忠直の晩年に描かれたのが有力な見方です。

忠直追放後は、忠直の息子・光吉の転封先である津山藩(岡山県)松平家で保管され、大正時代になってから売りに出されました。

では「山中常磐物語絵巻」には何が描かれているのでしょうか?

 

松平忠直の思いもノセて「山中常磐物語絵巻」

タイトルからお察しの方もおられるでしょうか。

同絵巻は常磐御前、つまり源義経の母にまつわる話です。

御伽草子にあるもので、又兵衛の生存当時は浄瑠璃でよく演じられていた演目。牛若に会うため奥州へ行こうとする常磐御前が盗賊に殺され、牛若がその仇を討つという復讐劇です。

では、この話を又兵衛に描かせたのは誰なのか。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-文化・芸術

© 2020 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)