長宗我部元親/wikipediaより引用

長宗我部家

長宗我部元親61年の生涯まとめ! 一代王国が夢と散るまで【四国戦国譚】

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長宗我部軍は怒濤のごとく阿波に進入し、海部城はあっさりと陥落、城主・宗寿は逃亡する。
元親の勢いを見た周辺の城主たちはこぞって人質を出して降伏し、元親はたちどころに阿波南部の海部、那賀(なか)の二郡を掌握してしまう。

次に目指したのは「白地城(高知県・三好市)」だ。
白地城は阿波の西端部に位置しており、土佐・伊予・讃岐を結ぶ交通の要所となっていた。

四国制覇のためには、是が非でも押さえなければならない城。
守っていたのは十河一存(そごうかずまさ)の妹婿・大西覚養(おおにし かくよう)だった。

このとき覚養は、実弟であり養子にしていた上野介を人質として元親に差し出した。
それから2年後の天正六年、覚養は十河存保(そごうまさやす)に応じて寝返るのだが、『上野介を斬首にすべきだ!』という家臣の意見をおさえて、元親は覚養を国元へ送り返す。

「覚養の裏切りは憎むが、上野介に罪はない」

いかにも芝居っぽいセリフであるが、こうした度量が人の心を打つのもまた事実。
同措置に感激した上野介は、長宗我部の阿波討ち入りの先陣を自ら買って出て、これにより白地城は落ち、上野介はその後も元親に家臣として仕えるのであった。

阿波の南部と北部を支配した長宗我部軍は更に2方向に分かれて進軍、阿波を治めていた三好長治が国内の戦いで敗死したこともあり天正七年には阿波の大半を支配下に置いた。

勢いにのった元親は天正六年から本格的な讃岐(香川県)侵攻を開始する。
手始めに藤目城(香川県・観音寺市)を降伏させ、続いて天霧城主(香川県・善通寺市)の香川氏と和睦、次男の親和(ちかかず)に香川氏を継承させた。

弾みをつけた長宗我部軍は、中讃岐に兵を進め1万2000の大軍で羽床氏を降伏させ、天正八年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧する。

これにて土佐・阿波・讃岐の三国を支配下に。

残りの伊予攻めに関しては、天正五年頃より郡代に命じて南伊予攻略を開始したが、中伊予を支配する河野氏に中国の雄・毛利氏が援軍を出して苦戦し、現場の判断で一時和睦となる。
更には、毛利氏が織田氏との戦いで余裕の無くなった天正七年(1579年)にも伊予侵攻を再開するが、大森城(愛媛県宇和島市)で大敗を喫し、撤退を余儀なくされた。

その一方で東伊予については、順調に国人を味方につけていった。

間もなく四国統一。しかし、この時点で待ったをかけた、思わぬ大物が現れる。

織田信長である。

イラスト:富永商太

 

織田信長の命令? んなもん知らんがな!

前述の通り、当初の信長は、元親の四国侵攻を許容していた。
しかし、四国で元親が台頭してくると、良好な関係は徐々に崩壊していく。

信長は、元親が力を持ちすぎぬように「一条氏の土佐支配を補佐している元親」と見なしたかったのだが、天正九年二月に元親が娘婿でもあった一条内政を追放すると、織田政権と長宗我部氏の間に亀裂が入り始める。
信長は四国政策の路線を大きく変更した。

すなわち三好氏への肩入れである。

それまで信長は、明智光秀を仲介として長宗我部氏と友好な関係を結んでおり、元親の阿波・讃岐の三好勢力への攻撃を容認していた。

が、この方針変換で、信長は元親に対し「土佐一国と阿波南部は与えるが、その他は返上せよ」との使者を出す。

元親はこれを拒絶した。
当然であろう。たしかに事前に許可を得る手続きは踏んだが、実際に切り取ったのは長宗我部の実力である。
本来であれば口出しされる場合じゃない。

ならば、と織田軍も攻撃を開始させる。
信長の助力を得た三好康長が先発隊として阿波で反撃を開始したのだ。

更には天正十年(1582年)5月、信長の三男である神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍も編成される。

これにより、いよいよ立場が窮してきた元親。
2014年に見つかった新史料「石谷家文書」(石谷家は元親正室の実家にあたる)の中には、この月に長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状があり、この時点で元親は信長に恭順する姿勢、つまり「言うこと聞きまする~」という姿勢を見せていた。

本能寺直前に土佐の長宗我部と明智との書状のやりとり判明

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本能寺の変に影響が皆無だったとも考えにくい

1582年6月2日の早朝。
織田信孝率いる四国討伐軍は、岸和田の港からすでに船を出し始めていた。

そこへ飛び込んできたのが「信長自刃」の急報。

そう。本能寺の変である。

信孝は軍を撤退せざるを得ず、四国攻めは寸前のところで回避された。
果たしてこれは偶然であろうか?

本能寺の変の動機としては怨恨説、野望説、秀吉黒幕説など多数あるが、その一つの有力説として考えられているのが『四国説』。

長宗我部氏と同盟関係にあった光秀にとっては四国征伐により長宗我部家が滅亡することは手痛いダメージとなりこれを回避したかった。
あるいは仲介者としての面子を潰された。

こうした種々の因縁が絡んで本能寺の変を起こした――というものである。

『元親記』にも「斎藤内蔵介(利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」ともあり、(主な理由かどうかは別としても)本能寺の変が長宗我部家援護のために行われた可能性は否定しきれない。

ただし、である。
新資料「石谷家文書」で確認された「元親が信長に対して恭順の意を示している」ことから、すでに四国の件は解決を見ており明智光秀が謀反を起こす理由はなくなったとする指摘もある。

決定打のない日本史最大のミステリーであり、今後の研究結果が待たれるところであるが、いずれにしても長宗我部の動きが中央にも影響を与えるような、そんな存在であったことは間違いない。

では、本能寺の変後、元親はどのように動いたのであろうか(続きは次ページへ・)。

 

元親47歳 四国統一

本能寺の変の報を聞いた元親の嫡男・信親は海部城に兵を集め、一気に勝端城を攻め落とす姿勢をとった。

これに対し元親は、なぜか「時期を待つように」と慎重な姿勢をとっている。

それから2ヶ月後の8月。
元親は2万3000の軍で勝端城を攻め落とし、阿波を手中におさめた。

さらには讃岐へも進軍し、手始めに藤尾城を攻め落とすと、総勢3万6000の軍で十河城を囲む。
冬を迎えて同城の包囲から一旦は撤退するものの、翌年6月に再び攻め入りついに陥落させた。

同じ頃、近畿では信長亡き後の後継者をめぐり、織田家臣団での勢力争いが行われていた。

山崎の戦いを制し清須会議でイニシアチブを握ろうとする豊臣秀吉と、それに反目する織田家の重鎮・柴田勝家
元親は柴田勝家側につき秀吉と対抗するも、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗死してしまう。

天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも徳川家康と結び、大坂を挟撃するための渡航準備を急いだが、十河城陥落後の讃岐における残存勢力の討伐に手間取ってしまう。

8月に虎丸城を落とし、2万の兵の出兵準備を整え井伊直政を通じて「出兵の準備完了」を家康に報じたが、時既に遅し。
織田信雄と豊臣秀吉の和睦により、家康も振り上げた拳を下げていた。

それでも元親は侵攻の手を休めず、難航しながら伊予の平定に成功し、天正十二年末には河野氏を降伏させ、天正十三年春までには西予の勢力もほぼ平定した。

元親47歳。ついに四国をほぼ統一したのである。

 

10万の豊臣軍に降伏し、土佐一国へ

元親が四国統一を進めていた頃、近畿、中国の情勢は動いていた。
宇喜多は豊臣に臣従し、毛利と豊臣の領土問題も一段落つき、近畿・中四国地方では長宗我部元親だけが孤立した存在になっていた。

元親は秀吉に使者を送り領国の部分的返上(伊予一国返上案、阿波・讃岐の返上案)を申し出たが、交渉はまとまらず、紀州の根来・雑賀勢の征伐を終えた秀吉は天正十三年6月、弟・羽柴秀長を総大将とする10万の軍勢を用意する。
そして淡路、備前、安芸の三方面から四国に向かわせた。

これに対する元親軍は総勢4万。
数の上で不利なだけでなく、一領具足で兵農分離が完全ではない長宗我部は秀吉軍の敵ではなかった。

長宗我部側の城は相次いで攻略され、阿波戦線が破綻すると、7月25日、元親は秀吉に降伏。哀しいかな、安堵されたのは土佐一国のみだった。

元親は上洛し、秀吉に臣従を誓うのであった。

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戸次川の戦いでかけがえのない嫡男を喪い

四国を平定した秀吉は、天正十四年(1586年)、九州の島津征伐に着手する。
キッカケは、島津義久に圧迫されていた大友宗麟からの援助要請だった。

大友宗麟相手の「耳川の戦い」、龍造寺隆信相手の「沖田畷の戦い」など。こうした大合戦での連勝で、九州最強となった島津軍も負けてはいない。
先手を取るようにして大友の本拠地・豊後へ侵攻し、12月には要衝・鶴賀城を包囲。

そのころ大友義統(よしむね・宗麟の嫡子)の府内城へ、援軍として出向いたのが四国勢の長宗我部元親・信親父子、十河存保らだった。
軍監役は、四国攻めの功績で淡路・讃岐に10万石を与えられた仙石秀久である。
漫画『センゴク』でもお馴染み、豊臣恩顧の武将だ。

しかし、肝心の大友軍の士気が低かった。
大友義統は“無能”として知られるバカ息子的存在。
おまけに四国勢も、最近まで敵同士だった者であり、軍議もロクに進まない。

秀吉としても一気に攻め寄せる気はなかったのであろう。
「徐々に軍を増やし、いずれは自分が軍を率いて行く」
と持久戦を指示していた。

しかし、である。
何を血迷ったか。軍監役の仙石秀久が、功を焦って戸次川(大野川)の渡河を主張するのであった。

これに対し長宗我部元親&信親父子は猛然と反対した。
冷たい冬場の渡河は無事に渡れても身体が凍って危険すぎる――そんな指摘は、至極当然のものであろう。

しかし十河存保も渡河しての戦いに同調し、川を渡っての出陣が決定してしまう。

これが長宗我部家にとって大きな運命の分岐点となった。

真冬の川をどうにか渡り終えた秀吉軍。
その前に現れたのは戸次平野に布陣した島津軍であった。

精強で知られる島津勢は軍を4つにわけ、先陣を切った秀久本隊が突出したのを見逃さず反撃に転じ、主力部隊でこれを叩く。
と、秀久はあっさり敗走、川を渡って逃亡してしまうのである(逃げまくって地元の讃岐まで)。

こうなると残された長宗我部勢も踏ん張りのきくわけがなく、信親が父親の本隊と連絡を絶たれ、奮戦むなしく討ち死に。
十河もまたこの地に散ったのだった。

元親は命からがら伊予の日振島に落ち延びることが出来たが、嫡男の他にも多くの重臣を失う結果となった。

 

スッカリ人が変わって暗君に

永禄八年(1565年)に元親の嫡男として生まれた信親は幼い頃から聡明で勇気があり、元親は早くから後継者と決めていた。

『土佐物語』によると信親は身長が六尺一寸(約185cm)で色白で柔和、聡明であったという。
将来を期待した信親を22歳という若さで失った元親はすっかり人が変わってしまった。

平たく言うと暗君になってしまったのである。

信親が死んだ時点で、元親にはまだ3人の息子がいた。
いずれも正室との間の子で、親孝、親忠、盛親である。
家臣の間にはそれぞれの男子を擁立する動きがあったが、秀吉は次男親和に家督相続を認める旨を送っている。

だが元親は、後嗣問題を2年先送りした上で、天正十六年、末子の盛親を後継者として指名する。
同時に14歳の盛親に、まだ2~3歳の幼子であった信親の娘を正室として迎えることを決めた。

この婚姻に異を唱えた一門の吉良親実(きらちかざね)と比江山親興は切腹に処されてしまう。

吉良親実は元親の弟・親貞の息子、つまり甥であり、比江山親興は元親の従兄弟にあたる。
吉良親実の場合、家臣七人が殉死し、その墓から亡霊が出るとの噂が広まり、比江山親興は妻子六人も死罪となり、これまた墓から七人の亡霊が出るとの伝承が残っている。

その亡霊に出会った人は高熱が出て死んでしまうという「七人みさき」伝説である。

かつては敵にすら情けをかけて助命をした元親が、こともあろうに身内を粛正する人物へと豹変してしまったのだ。
秀吉から後継者として朱印をもらっていたにも関わらず相続出来なかった次男・親孝はこの頃に死去しているが、落胆のあまり断食をして餓死した説や、父親に毒殺された説など、明るい話はない。

長宗我部家の結束は大いに乱れた。
同年、本拠を岡豊から大高坂城(現在の高知城・高知県高知市)に移している。

高知城

 

遺言に記された戦の準備 関ヶ原を予感していた!?

天正十七年頃、元親は秀吉から羽柴の姓を送られた。

1590年の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて秀吉軍に参戦し下田城を攻め、小田原城包囲に参加。
某ゲームのイメージで「海賊・水軍」のイメージが強いかもしれないが、四国国内の陸戦に水軍は必要なく、統一時代には補給部隊の色合いが強かった。

土佐水軍の主体は種崎、池氏の十市水軍で、元親の時代、種崎には造船所が置かれたという。

下田城攻めの際には海上から攻撃をしており、文禄・慶長の役でも文禄元年(1592年)には兵3,000を連れ、自慢の大船・大黒丸を用意して土佐を出航した。
この時も水軍としての働きを期待されたようなので、小田原攻め以降は四国統一の頃と長宗我部水軍のカラーも異なっていたのであろう。

元親の部隊は普州城攻略戦を行い、陣に侵入してきた虎を部下が討ち取った話が残る。

そして……。

秀吉の死から約半年後、慶長4年(1599年)の春から元親は急速に体調を崩した。

4月に病気療養のため伏見屋敷に滞在し、豊臣秀頼に謁見するも翌5月から病はさらに重くなり、盛親に遺言を残した後、5月19日に死去。
遺体は天竜寺で火葬され、遺骨は故郷の土佐へと送られた。
享年61。

秀吉没後の政局混乱から、大戦が近いと感じていたのであろう。
遺言の内容は、戦の準備に関するものばかり。

関ヶ原の一年前。
土佐の一勢力からはじまり一時は四国を制覇した男は、その後、滅亡へと向かう家の運命を知らずに旅立った。

 

 

長宗我部元親百箇条とは?

長宗我部元親百箇条は慶長二年(1597年)に長宗我部元親・盛親が制定発布した分国法律である。

分国法とは、戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典で、大河ドラマおんな城主直虎にでてきた「今川仮名目録」もその1つ。

長宗我部元親百箇条は分国法の中で最も新しい。
対象は家臣だけではなく領民へも及び、法の定められた対象は、身分、訴訟、刑罰、取締、交通、軍事など多岐に渡っている。

長宗我部元親百箇条より前の話で、元親が「飲酒の禁止」を出し、『土佐物語』に面白い話がある。

酒を飲むと喧嘩が増えるという理由で、元親は禁酒令を出した。
しかし土佐は酒飲みが多い土地柄で当然のことながら不満の声が多かった。
そんな中、元親は「こっそり隠れて1人で酒を楽しんでいた」のである。

それに気付いたのが家臣の1人福留儀重。
猛将で知られた人物で、元親のもとへ運ばれる酒樽を見付け、数個の樽を壊し
「人々の見本となるべき人が法に背くとは何事だ。民を苦しめ自分だけ楽しむとは無道も甚だしい。これを諫めないのは家臣ではない。殿が承知せずに私が一命を落とすことになっても本望だ」
と酒を運ぶ使いの者に言い放った。

これを聞いた元親はうろたえ、報告にきた家老たちにこう言ったという。

「儀重が自分を諫めた行為はあっぱれである。このような家臣を持った私は果報ものだ。禁酒の法を出しておきながら自分で破ったのは無法であった」

これでスンナリ飲酒オッケーになったかと言うと、土佐ものの頑固さか
「一度出した法をすぐに変えると良くない。自分が禁酒します」
という、おいおいおい!といった内容に。

結局の所は、禁酒法を撤回しないと民は納得しないであろうと判断した元親が
「酒を禁じた法令は誤りであった。これを許すが、乱酒はしてはいけない」
と立て札を立てて法を変更した。
人々は元親の臨機応変に改める心に感じ入ったという。

元親の柔軟な態度と寛い心が伺えるエピソードであるが、福留儀重は豊後戸次川の戦いにおいて元親の嫡子の長宗我部信親らと共に戦死している。

やはり……豊後戸次川の戦いが無ければ……と無念に思わざるを得ない。

ちなみに長宗我部元親百箇条では飲酒は禁止されておらず、大酒の禁止となっている。

文:編集部

【参考文献】
長宗我部(→amazon link)
もっと知りたい! 長宗我部元親 (PHP文庫)(→amazon link)
長宗我部元親と四国 (人をあるく)(→amazon link)
長宗我部元親 50年のフィールドノート(→amazon link)
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)(→amazon link)
長宗我部元親/wikipedia
元親記

 



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