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戦国関白・近衛前久は謙信や信長とマブダチ~本能寺後に詠んだ南無阿弥陀仏

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本願寺を出て信長へ接近

将軍になった義昭は、その地位にふさわしい働きをしようと動き始めます。

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兄の無念を晴らすため、三好三人衆らを討つことも含まれていたでしょう。

そこでまず「前久は兄上の殺害に一枚噛んでいるに違いない!!」(意訳)として、前久を朝廷から追い出してしまいました。

これはなぜかというと、当時の公家と武家の結びつきによります。

義昭は、近衛家にとっては政治的ライバルにあたる二条家との関係を深めていました。となると、前久は親戚ではあっても邪魔になります。

そんなわけで前久は関白の座も奪われてしまい、仕方なく縁戚の赤井直正本願寺に身を寄せました。

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信長とは対立ポジションですね。

しかし、前久は信長と喧嘩するつもりはありませんでした。

義昭と信長の仲が険悪になり、信長を包囲する動きが見えてきた頃、本願寺を出ています。

信長にとっても、前久を味方につけるメリットは多々ありました。

前述の通り、義昭・二条家というラインができていましたので、信長としては同じ五摂家かつ筆頭格の近衛家の人間である前久は、非常に強力なカードになるわけです。

ここで多少恩を売っておき、あとは人柄や能力を見極め、問題がなければ手を結びたいところです。

そんなわけで、天正三年(1575年)に信長の奏請により、前久は帰京することができました。

 

島津からの鷹は信長へ!?

その後、前久と信長は公私両面での付き合いを始めます。

歳も近く、共に鷹狩りを趣味としていたため、打ち解けるのも早かったようです。

物品や馬・鷹などをよく贈りあい、互いの獲物を自慢しあったりもしていたそうで。何それかわいい。

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また、前久は鷹狩をテーマにした歌集『龍山公鷹百首』も編述しています。

自らも乗馬を趣味とすることもあって、馬術や馬具についても武家顔負けの慧眼をもっていたようです。

島津義久島津義弘に対し、自ら選んだ馬具を送ったこともありました。

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近衛家は九州に多くの荘園を持っていたため、九州各地の大名と代々のお付き合いが続いていたのですね。

その中でも島津氏との付き合いは密接なもので、前久と義久は長年に渡って文物のやり取りをしています。

島津氏からは、名産の大鷹がよく贈られてきていたとか。しかし、それはいつも信長に所望されて、前久の手元には残らなかったといいます。

もちろんただカツアゲしたわけではなく、信長は前久に名馬をよく贈っていたそうですから、win-winといったところでしょう。

前久は信長から馬をもらうと、すぐに自ら試乗していたそうです。これもまた、なんとも微笑ましい話ですね。

 

石山本願寺との交渉役に抜擢

かくして信長の信頼を得た前久は、九州方面の大名や本願寺との連絡・折衝役を任されます。

薩摩に行った際はちょうど春だったこともあり、歌会や花見などでかなりのもてなしを受けていました。

一方で島津氏と伊東氏の戦に参戦しようとして、義久にきつく止められたこともあります。息子・信伊にも似たようなエピソードがありますので、気性がよく似た父子だったようです。

天正八年(1580年)3月に始まった石山本願寺との交渉は難しいところでしたが、前久は本願寺のトップ・顕如の長男である教如を猶子にしていたため、いわば身内でした。

また、織田家の依頼ではなく、正親町天皇からの勅命による講和という形で現地へ向かっています。

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前久はあくまで”織田家の使者”ではなく、”天皇の命を受けた朝臣”として本願寺との交渉に臨んだのです。

既に石山本願寺と織田家の対立は十年近くに渡っており、その間に信長は延暦寺や長島本願寺に対して苛烈な対処をしていましたから、本願寺側が警戒するのも無理のないこと。

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そこで信長は、身内かつ関白経験者の前久が実際の交渉にあたることによって、本願寺の面子を保ちつつ、心情を和らげる効果を期待したのでした。

本願寺側でも、この時点では長期戦を続けるのも厳しい状況になってきていました。

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天正六年(1578年)の第二次木津川口の戦いにおいて、信長に味方した九鬼水軍が、本願寺に兵糧を運び入れていた毛利方の水軍に壊滅的な打撃を与えていたことなどが理由です。

天正八年閏3月に講和の方針がまとまりましたが、教如をはじめとした若い世代の中には、石山本願寺での籠城を続けるべきだとする人々もいました。

前久は引き続き、彼らの説得にもあたったものと思われます。

その苦労がたたってか、同年4月には腫物で交渉の現場からは身を引きました。

”腫物”とは、皮膚にできるしこりやコブ、膿が出るできものなどのことです。現代でいえば、ストレスで肌荒れを起こしてしまったというところでしょうか。

現代人からすると「たったそれだけで?」とも感じられますが、不浄を忌む公家社会では大事だったのでしょう。

前久は石山から引き上げたものの、教如に対し、手紙で「講和に応じなさい」と説得を続けます。

その甲斐あって、同年夏には教如派も石山から退去しました。

こうして前久は、信長にとって大きな役割を果たしたのです。

 

甲州征伐へも同行

石山本願寺の説得に成功した近衛前久

信長はことのほか喜んだらしく、

”信長殿から

「天下が定まったら近衛家に一国あげるね!」(超訳)

という約束を取り付けた”

と、前久が息子・信伊に当てた手紙の中で書かれています。

公的に有能で、私的にも馬が合う相手となれば、大盤振る舞いしたくなるのも自然な話ですね。

その後も信長の意向を受けて、大友・島津間の講和のために九州へ行ったり、【甲州征伐】に同行したりしています。

甲州征伐とは武田勝頼を滅ぼした一戦ですが、もちろん戦力としてではありません。

ハッキリとした同行理由は不明ながら、かつて謙信に期待をしてアテが外れた前久としては、感慨深いものがあったのではないでしょうか。

あくまで私見ですが、信長が甲州征伐の帰路において、富士山や周辺各地の名所を見てまわったことと関係があるかもしれません。

信長は出陣の時点で

「帰りは富士山を見に行こう。折角の機会だから、前久や馬術に長けた公家衆に、東国と富士山を見せてやるのも悪くない」

というようなことを考えていたのではないでしょうか。

富士山は竹取物語にも登場しますし、公家の間でも広く知られていたはずです。

日本一の名所を拝める機会をくれるとあれば、前久らが強く興味を持ったとしても不思議ではありません。

このとき他に同行した公家は、

・日野輝資
・飛鳥井雅敦
・烏丸光宣
・正親町季秀

の四名です。

このうち飛鳥井雅敦以外の三名(前久を入れれば四名)は、信長が行った軍事パレード”京都御馬揃え”にも公家衆として参加していました。

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ということは、全員ある程度の体力や馬術を身につけていたはずです。東国への長旅や偏見を厭わなければ、誘いに乗ったことでしょう。

帰路で信長は軍を解散し、公家たちがどこで信長と別れたのかはよくわかりません。

そんなこんなで、織田家と近衛家の仲は長く続くかに見えました。

おそらく信長も前久も、それを望んでいたでしょう。

しかし、そこで大事件が起きてしまいます。

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