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戦国関白・近衛前久は謙信や信長とマブダチ~本能寺後に詠んだ南無阿弥陀仏

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信長七回忌での追悼歌

隠居の身ということもあり、前久はその後静かに暮らしていたようですが、ひとつ目立つ動きとして、信長の七回忌があります。

信長を悼んで『なむあみだぶ(ふ)』の一字ずつで始まる六首の歌を詠んでいるのです。

ちょっと長くなりますが、載せておきましょう。

適宜漢字などを読みやすくしてあります。

【前久から信長への追悼歌】

(な)
嘆きても 名残つきせぬ 涙かな なお慕わるる 亡きが面影

(む)
睦まじき 昔の人や 向かうらむ むなしき空の むらさきの雲

(あ)
あだし世の 哀れ思えば 明け暮れに 雨か涙か あまる衣手

(み)
見てもなお みまくほしきは みのこして 峰に隠るる 短夜の月

(た)
尋ねても 魂(たま)のありかは 玉ゆらも たもとの露に 誰か宿さむ

(ふ)
更くる夜の 臥所あれつつ 吹く風に 再び見えぬ ふるあとの夢

五・七・五・七・七が全て始めの一文字と同じ字で始まる、技巧的になかなかにスゴイ歌です。

しかしそれ以上に、これらの歌からは親しい友の死を嘆く、前久の素直な心情が詠まれている気がします。

本能寺の変の動機が「前久黒幕説派」の方からすると、これらの歌もカムフラージュに見えそうですが……。

それならわざわざ六首も詠まず、一首だけ詠んで「信長の死を悼んで」とでも詞書(和歌が詠まれた状況などに関する注釈)をつけておけばいい話です。

信長の七回忌の頃には、とっくのとうに秀吉の天下になっています。その段階で、六首も読むほど気合を入れて、信長を悼む”ふり”をする必要はないでしょう。

そうなると、やはり前久は純粋に友人の死を悼んだのではないか……という気がします。

文字通りあっちこっちを駆けまわった前久には、他に友情を温めた人もいなかったでしょう。

また、江戸時代に入ってからのことですが、親交のあった津軽家の姫が亡くなった際に、同じく『なむあみだぶ』で始まる六首を詠んだとされています。

こちらについては詳細が不明ながら、もしも事実だとすれば、前久はかなり情の濃い人だったのでしょう。

謙信と血判状を交わすほどの入れ込みようやフットワークの軽さなどからしても、その可能性は高いのではないかと思われます。

 

関ヶ原の戦い後に島津勢を迎え入れ

最後に、時系列が前後しますが、関ヶ原の戦いについても少々触れておきましょう。

前久は公家の上に隠居の身ですから、政治的な動きはあまりしていません。京都に残っていた東軍方の妻子をかくまったくらいです。

むしろ、戦後のほうが忙しかったと思われます。

既に何度か触れましたが、近衛家と島津家は非常に強い結びつきがありました。

かの”島津の退き口”で命からがら逃げてきた島津家の人々を、前久たちは積極的に屋敷へ迎え入れています。

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元々島津家は関が原の戦い……といいますか、家康と石田三成の対立にはあまり積極的に関わってはいませんでした。【会津征伐】のために1000人ほどの兵を率いて、義弘が上方にいただけだったのです。

しかし、会津へ向かう前に上方で西軍が兵を挙げたため、話が少々変わってきます。

家康は上方を空けるにあたり、伏見城に留守居の将兵を残していたのですが、ここを西軍が攻めたのです。

義弘は家康からの依頼で、伏見城への援軍として入城しようとしました。……が、城将の鳥居元忠に拒否されてしまい、立場をなくして仕方なく西軍に付かざるを得なくなります。

ここで東軍としての立場に居続けると、4万ともされる西軍の中で孤立してしまうからです。いかに勇猛な島津軍でも、これほどの兵数差ではどうしようもないと思ったでしょう。

義弘ももちろんですが、島津の兵たちにとっても本当に災難な話です。

そういった事情を、近衛家側がどこまで知っていたかはわかりませんが、縁の深い家の人々に対しては、最善をつくすのが公家の流儀。

彼らはそのまま近衛家で年を越したようです。

帰国についてはあまり詳しい記録がないながら、島津家の方から丁寧に礼を述べる手紙が送られているため、無事に帰ることができたのでしょう。

その後、信伊が家康に対して島津家赦免を願い出ています。もちろん、前久の意向でもあったでしょう。

「義弘殿は状況的に致し方なく西軍についたのであり、本国にいた義久殿は知らぬこと」

という路線で家康を説得したようです。

 

信伊が左大臣に返り咲き

同時に、信伊は「義久殿が自ら上洛して家康に一言入れるように」と勧めていたようですが、これはかないませんでした。

代わりに家老の鎌田政近が上洛し、なんとか島津家の本領安堵を取り付けています。

家康としても、ここで遠隔地かつ精強で知られる島津家とやり合うのは、メリットよりデメリットが大きかったでしょうから、ハナから取り潰す気はなかったでしょう。

しかし、一度振り上げた拳をそのまま下ろすのはバツが悪いもの。面子を重んじる当時の価値観であればなおのことです。

島津家側から何らかの動きがなければ、許すというわけにはいかなかったのでしょう。

関ヶ原の戦い後、慶長六年(1601年)に信伊は左大臣に返り咲き、その後慶長十年(1605年)に関白へ就任しています。

このあたりから前久はほぼ完全に”ご隠居様”になり、政治の世界には出てこなくなります。

草津温泉に出かけたり、家族と頻繁に会って団欒を楽しんだり、といった具合です。

島津家との交流も変わらずに続きました。

特に義久とは気心も知れているからか、彼にあてた手紙の中で、

「私はいらぬ武芸ばかりに励んでいないで、もっと別のことに身を入れるべきだった」

と、若干後悔の念をにじませたこともあります。

戦に出たがった前久を止めたことがある義久からすれば、

「それ、もっと早く気づいてほしかったな……」

なんて思ったかもしれませんね。

しかし、職責や血筋にとらわれずに自らの意思で動き、可能な限り良い形で家を残そうとし、それがかなったのですから、ベストではなくてもベターな人生だったのではないでしょうか。

前久は慶長十七年(1612年)に亡くなりました。

享年77。

息子の信伊も、その二年後である慶長十九年(1614年)に亡くなっています。

幸か不幸か、かつて自分たちを脅かした豊臣家の崩壊を見ることはなかったのでした。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
近衛前久/Wikipedia
近衛龍山筆津軽富姫弔歌/弘前市

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