正親町天皇/wikipediaより引用

皇室・公家

正親町天皇は光秀&信長&秀吉とどんな関係を築いたか? 77年の生涯

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三好勢が本圀寺を襲撃

翌年の永禄十二年(1569年)は、物騒な事件から始まりました。

年明け早々に三好三人衆が京都・本圀寺を襲撃したのです。

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本圀寺の変】と呼ばれるこの事件で襲撃されたのは足利義昭で、明智光秀細川藤孝らの活躍で事なきを得ますが、正親町天皇や公家の人々はさぞ不安に感じたことでしょう。

知らせを受けた信長は直ちに上洛し、4月まで在京しています。

この在京の間、信長は複数回にわたって宮中へ山蕗や鯨、鱒、鶉などの食物を献上しました。

正親町天皇や公家衆は大いに喜び、ものによっては宮中で調理して公家たちに振る舞っていたようです。

とはいえ、信長も宮廷に媚びへつらうまではしません。

同年3月、宮廷から信長に対して「副将軍に就任してはどうか」という話をスルーしています。

かといって険悪な関係になったわけではなく、信長は4月から禁裏の修繕を始めました。

いわずもがな大金を必要とする事業ですし、正親町天皇は信長のフットワークの軽さ・気前の良さについては「信用に値する」と思えたでしょう。

となると、次にやるべきことは改元です。

永禄年間には前述の通り永禄の変や、松永久秀らの戦闘で東大寺を焼失してしまう事件などが相次いだため、正親町天皇は改元を望んでいました。

永禄十二年中に、宮中にはその意向を伝えていたようです。

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しかし、その前に父である後奈良天皇の十三回忌をやらなければなりませんでした。

 

十三回忌の費用を家康に負担させたのは

後奈良天皇の十三回忌は永禄十二年(1569年)7月のことで、費用は信長ではなく、徳川家康に命じられています。

使者は信長とも親交の深い山科言継(やましなときつぐ)でした。

言継は三河へ行く途中で岐阜に立ち寄り、信長にこの件を話したようです。

すると信長はこんな言葉で言継を喜ばせます。

「今、家康は駿河で対陣しているので、三河に行っても会えないでしょう。

私から家康にその件を伝えます。

返事が来るまで、言継殿は岐阜に留まると良いでしょう。

もし家康から良い返事がなければ、私から銭一・二万疋を献上致します」

結局、家康から費用が献上されたため、このときは信長から献金を受けることはありませんでしたが、正親町天皇と言継は、二人に対する好意がかなり増したようです。

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正親町天皇は滞りなく費用が献上されたことを大いに喜び、この後言継に送った手紙の中で家康を【左京大夫】と呼んでいるのです。

左京大夫というのは、京都市中の司法・行政・警察機能を受け持つ職。

この場合の”左京”は京都の東側を指します。

右京(京都の西側)を受け持つ職は、同様に右京大夫と呼ばれました。

室町時代になると、四職の家柄である一色氏などが左京大夫、細川氏宗家(京兆家)が右京大夫に任じられたため、この二つの官位戦国大名の羨望の的でもあったのです。

ただし、京兆家がずっと京都で勢力を持っていたため、右京大夫を他の大名が受けることは難しく、左京大夫に人気が集中していました。

このため、宮廷が困窮するようになると、あちらこちらの大名に左京大夫の官職が売られるように……。

正親町天皇もそういった背景を知っていて、家康をおだて、また何かの折に献金を引き出そうとしたのかもしれません。

いかにも政治的なやりとりという感がありますね。

 

第一次信長包囲網で和議に介入

年が明けて永禄十三年(1570年)2月には、改元の話を義昭などにもちかけています。

その甲斐あって4月には”元亀”への改元を実施。

続けて、正親町天皇の命で、信長の戦勝祈願と思われる祈祷が行われています。

この頃の信長は浅井・朝倉氏や三好三人衆など敵が多くなっていました。

今日では【第一次信長包囲網】と呼ばれる時期です。

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祈祷の効果があったかどうかは神のみぞ知るというところですが、正親町天皇が心情的に信長へ肩入れしていたことがわかりますね。

といっても義昭との関係も悪くなく、同年7月には義昭に献金を依頼し、あまり日を置かずに一万疋献上されています。

同年11月には比叡山が浅井・朝倉軍を山上に引き入れ、織田軍がそれを包囲するという事件がありました。

このときは義昭と正親町天皇の介入によって和議が結ばれています。

誰の意思で行われたのか?

さまざまな説がありますが、正親町天皇は積極的だったようです。

比叡山は都の鬼門=北東を守る鎮守の山であり、伝統ある寺院。正親町天皇や朝廷の人々にとっては、できれば本来の仕事である仏道修行や祈祷に専念し、その役目を果たし続けて欲しかったところでしょう。

しかし、事態は思わぬ方へ悪化していきます。

いわゆる【比叡山焼き討ち】が勃発してしまうのです。

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