マニラでの高山右近/Wikipediaより引用

宣教師・キリシタン

高山右近はなぜマニラで死んだ? 村重~信長~秀吉の戦国綱渡り人生

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信仰は、自分にとっても他人にとっても、ときに辛い結果をもたらすことがあります。

本人に自覚がないことも多いので、余計に被害が拡大してしまうのですが……中には知恵を巡らせて防いだ人もいます。

慶長二十年(1615年)1月8日、フィリピンの首都・マニラで亡くなった高山右近です。

「右近」というのは通称なのですが、彼の場合本名がはっきりわからないため、右近と表記していることがほとんどのようですね。
ちなみに洗礼名は「ジュスト」だったそうで。漢字で表記すると「寿子」らしいんですがなぜ二文字目それにしたし。

まあそれはともかく、なぜ彼は近所とはいえ海を越えた異国で亡くなることになったのでしょうか?
それには、やはり彼の信仰が関わっています。

 

あの自爆大名・松永久秀にも仕えていた

彼は摂津国(現・大阪府)の国人の家に生まれました。
国人とは正式な国主として認められてはいないものの、地元の有力者として勢力を持っていた人々のことです。国衆という言い方もしますね。

彼等一人一人の影響力は国を動かすほどではないけれど、かといって大名はこうした国人たちをまとめなければ国の運営もうまくいかず、ときには国人から戦国大名へと発展するケースもあります。

有名な例では毛利元就とか、あるいは真田昌幸真田信之真田信繁)親子あたりもそこに含まれるかもしれません。

そんなわけで右近のトーチャン・高山友照も地元ではそれなりに名が知れており、近畿の有力な大名であった三好長慶に仕えていました。

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さらにその重臣・松永久秀からは大和国(現・奈良県)に城をもらっています。
本来の領地は摂津のままなので、飛び地のような感じですね。

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しかし、右近が12歳の頃に長慶が亡くなると、三好家では内紛やら裏切りやらのゴタゴタで急速に衰えていきました。

このころ両親と共にキリスト教の洗礼を受けており、もしかすると教えに感銘を受けただけでなく、こうした時勢の変化も影響していたのかもしれません。

 

和田惟政に反発して台頭してきたのが荒木村重

一方、高山家の地元でも他の家が力をつけつつあり、緊迫した状況が続きました。

そんな時期の京都に織田信長足利義昭を連れてきます。
義昭は十五代将軍になると、まずは地固めということで摂津に自分の直臣である和田惟政(これまさ)を置きました。

”将軍様”の意向には従わないといけないので、高山家も惟政に仕えることになったのですが……血筋的に正しいとはいえ、ついこの前まで逃げ回ってた人の家臣にそうそう人心がなびくわけもなく、余計に混乱を招いてしまいます。

そしてついに惟政へ反感を持つ人々が挙兵。
右近にとっても大きく関係することになる荒木村重です。

村重は池田家というこれまた摂津の大名の家臣でしたが、主家を乗っ取った上で信長と連絡を取り、「摂津は私のものにしていいですよね!?」「おk」(超訳)というお墨付きをもらいました。
なかなかの手際です。

なぜ信長がこんなことを許可したかというと、「性格が気に入ったから」だそうで。
バラバラにいろんな人が小さな領地を治めているよりは、ある程度まとまっててくれたほうがいろいろやりやすいからテキトーな人物に任せた、というのが真相でしょうけども。

当然のことながら村重は大喜びし、いろいろ頑張った結果、摂津のうち石山本願寺領(だいたい現大阪市)以外を手に入れました。

 

首の半分を斬られて重傷だって!? よく生きていたな……

当然ながら、和田家がこれをよく思うはずもありません。

しかしこの間に代替わりがあり、跡を継いだ惟長がまだ若年ということで叔父さんが口を出してきます。
と、もうこの時点でイヤな予感がしますね。

案の定トラブルが起き、この叔父さん、殺されてしまいます。
そこで惟長は次に信用できそうな人物として高山家を頼りましたが、和田家のお偉いさんはまたしてもこれが気に入らず、よからぬことを企み始めます。

そしてついに暗殺騒ぎとなり、右近は首の半分を斬られるという重傷。
奇跡的に助かり、より一層信仰を深めていくことになります。

でもこの傷、暗いところでドタバタ騒ぎになったせいで起きた同士討ち(未遂)だったらしいんですよね……。

事前に村重へ「何かウチら命狙われてるっぽいんですけど」と相談していたおかげで、この騒動の後、高山家はお咎めなしとなり、和田家がいた高槻城をもらうことができました。

ちなみに、元凶?の惟長は和田家の地元である甲賀(現・三重県)まで逃げたそうで、そのままそこで亡くなったそうです。

 

ようやく高山家の当主になったかと思ったら村重が謀反

その後、トーチャンの友照が「キリスト教最高! 神仏だめだめ♪」(超訳)という政策を掲げ、領内の寺社が破壊されたりキリスト教以外の聖職者が迫害されたり、あまり穏やかでないことも始めてしまいます。

一神教の全てが悪いわけではありませんが、この極端さがいただけないんですよね。

このころ右近は高山家の当主になります。
そして間もなく大事件が……。

荒木村重が突如、信長に反乱を起こしたのです。

村重は、一度は信長からの使者に従って謀反を取りやめようとしました。
が、安土城に向かう途中で家臣から「信長がそんなことで許すはずないじゃないですか」とそそのかされて引き返していますので、決意は固かったようです。

これには右近も驚き、新たに人質を差し出してまで村重に説得を試みましたが聞き入れてもらえません。

もはや話は通じまい――。そう判断した信長は、ついに攻撃を決断。
高山家がいた高槻城は戦略上重要な地点だったため、まずここへやってきました。

高槻市立しろあと歴史館所蔵の復元模型/Wikipediaより引用

高槻市立しろあと歴史館所蔵の復元模型/Wikipediaより引用

 

信長の怒りを増さずに人質を助ける方法とは?

信長は、直ちに高山右近への攻撃には取り掛かりませんでした。
旧知のイタリア人宣教師オルガンティノたち、つまりキリスト教関係者を使って右近の説得を試みているのです。

摂津どころか京都にいた宣教師達を全員集めたといいますから、できるだけ殺さずに事を収めたいと思っていたのではないでしょうか。
とはいえ、「できなかったらどうなるかわかってんだろうな☆」(超訳)なことも言っていますが。

以前から右近を見知っていたオルガンティノは、右近が「名誉のためにも人情としても人質を見捨てられないだろう」と理解していました。
それも含めてよく考えるよう伝えるのが精一杯で、結局彼の力だけでは事の解決に至りません。

高山家の中でも、徹底抗戦派と降伏派で真っ二つに割れていたからです。

そこで右近は、信長の怒りを増さずに人質を助ける方法を考え出します。
たった一人、紙衣(和紙の着物・下着によく使われていた)に丸腰で信長の下へ向かったのです。

これなら城と兵ごと信長の元へ行ったわけではないので村重を裏切ったことにはならず、信長へは反抗する意思がないことを示せるということになります。頭いいなあ。

詭弁といえば詭弁かもしれませんが、信長は右近の意思を汲み取り喜び、そのとき着ていた服や馬、そして改めて高槻城主の地位をやっています。
手こずらせた割には人的被害がなかったのがよかったのでしょう。

「お古なんて嬉しくないんでは?」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、当時エライ人が着ていた服をもらうというのは名誉なことでした。
旧暦11月=だいたい新暦12月のことですから、「それだけじゃ寒いだろ、とりあえずこれでも着とけ(´・ω・`)つ」というちょっとした優しさもあったかもしれませんね。

 

高槻周辺の寺社は衰退との記録残る

村重も、右近の予測通り人質を殺すことはせず、高山家は穏便に済ませてもらうことができました。
その後、籠城で粘った挙げ句、ついに諦めた村重が一人で城から逃げたせいで、彼の一族や妻子はかなり残酷な殺され方をしてしまうんですけどね……。

この一件から豊臣秀吉が台頭してくるまで、右近が大きな動きをした記録はあまりありません。

ただ、トーチャンと同じようにキリスト教以外には厳しかったらしく、高槻周辺では「高山右近の時代に衰退しました」とする寺社の記録も多いそうです。
右近は多くの大名がキリシタンになるきっかけになるくらい影響力を持っていたので、民衆がそれにならった結果、寺社が廃れたのかもしれませんが。

九州のキリシタン大名として有名な大友宗麟については「寺社を徹底的に破壊しました」という記録が一致しているので、右近のほうがまだ優しかった可能性は高そうです。
何事もやりすぎはいかんぜよ。

 

領地も財産も全て投げ出して信仰の許可を!

人付き合いのよさで知られていた右近は、キリシタン以外にも細川忠興や前田利家とも親交がありました。

忠興の妻・細川ガラシャ(旧・明智玉子)は右近の話を夫から聞いてキリシタンになったという説もあるくらいですので、興味のない人でも耳を傾けたくなるような話し方ができる人だったのでしょう。

しかし、時代は少しずつキリシタンに厳しい方向へ進んでいきます。
特に秀吉がバテレン追放令を発布すると、キリシタン大名の中には棄教を選ぶ人も出始めました。

右近はそうしませんでした。

「それなら領地も財産も全て差し出しますので、信仰を守ることをお許しください」

そう願い出たので、秀吉も世間もビックリ仰天。
思い切りの良さでこの願いは聞き届けられます。

そしてその後は小西行長や前田利家など、親交のあった人物に庇護されて過ごします。

 

国外追放→フィリピン・マニラで歓迎される

表向きは追放の身ではありながら、実際は、前田家で密かに所領をもらったり仕事をしていたようです。
この時期が右近の人生で一番穏やかな頃だったかもしれません。

大名ではなくなっていたので、関が原の戦いに参加することもなく、右近は加賀で江戸時代を迎えます。

すると……ここでまたキリシタンゆえの苦難が彼を襲いました。
家康が国外追放を決めたからです。当時の航海技術を考えれば、死刑にも等しかったでしょう。

右近はこれにも大人しく従い、フィリピン・マニラに渡ることとなります。

フィリピンは当時スペインの支配下でカトリックになっていましたので、現地からは熱烈な歓迎を受けました。
が、既に60歳を超えていた右近には長旅と南国の気候が毒となり、マニラに来た翌年息を引き取っています。

不思議なことに、右近の家族については後々帰国が許され、現在も石川県・福井県・大分県の三ヶ所に直系のご子孫がいらっしゃるとか。
ということは、家康はキリシタンとしての右近よりも、その人望を恐れて追放したのかもしれませんねえ。

異国の地とはいえ、同時代の他のキリシタンたちに比べれば、穏やかな最期だったのではないでしょうか。
キリスト教が主体になるので難しそうですが、彼を主役にしたドラマや映画が作られたら結構面白いかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
高山右近/Wikipedia

 



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