フランシスコ・ザビエル/Wikipediaより引用

宣教師・切支丹

【戦国宣教師伝】あのザビエルは再来日を目指していた? 知られざる生涯

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ザビエル
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「男色イケマセーン! 地獄に落ちマース」

ザビエルは早速、薩摩で布教をはじめました。

が、仏教の僧侶からの激しい抵抗に遭うばかりか、貿易の旨味が少ないことを悟った島津貴久にも嫌われ、間もなく鹿児島を後にします。

次に向かった平戸では地元の大名・松浦隆信に布教の許可を得て、ここではボチボチ成功すると、別の者に任せて博多へ向かい、さらに周防の山口へと進みます。

しかし、後に陶晴賢によって自害へ追い込まれる大内義隆に、あっけなく追い出されてしまいました。

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その理由がまた

「男色イケマセーン! 地獄に落ちマース」

「ふざけんな男とアレコレできないなら神なんぞいらんわ!!」

というものだったので……まぁ、宗教文化風習の違いは仕方ないですね。

その後は1551年、天皇と将軍に会うため、京までやってきます。

しかし、わけのわからん姿をしている上「神の教えが云々」とのたまうザビエルを、朝廷も幕府もすんなり通してはくれません。

当時の天皇は後奈良天皇で、将軍は足利義輝でした。

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後奈良天皇は京と民の復興を願って般若心経を自ら写経したり、伊勢神宮へ詣でるなど神仏への信仰がとても篤い方だったので、たぶん周りの人が気を利かせたのでしょう。

義輝はこの頃将軍職にはついていたものの、まだ京に腰を落ち着ける前だったので、そもそも京の市街にいなかった可能性もあります。

実にタイミングの悪いときに来たものです。

 

望遠鏡やメガネを進呈したら大内義隆の態度が一転

どちらにも会えない!

それを悟ったザビエルは(´・ω・`)顔で(?)京を去りました。

そこで、いったん平戸へリターン。

「土産物をたっぷり持っていけば、大内サンも布教を許してくれるかも」と思い立ち、荷物の中から西洋の文物をあれこれ引っ張り出します。

これが見事に当たり、初めて見る望遠鏡や置時計、ポルトガルのお酒、眼鏡などに大内義隆はホックホク。

以前キレたことも忘れて「ウチの領内は布教オッケー♪」とあっさり許可を出してしまいます。

現金すぎますね、大内さん。

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ザビエルもはりきって連日教えを説き、周防(山口県)で500人もの信者を獲得することができました。

豊後(大分県)にも行き、大友宗麟へもキリスト教を伝えています。

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そして大友家も後々滅亡の危機にさらされるのでした。

大内家といい島原の乱といい、なんか日本でキリスト教が広まるとロクなことがないような……。

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