承応二年(1652年)1月24日は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)が亡くなった日です。
あまりの可愛らしさから、東北の方言で「可愛い」をさす「めんこい姫」と呼ばれていたのが、いつしか縮まって「めごひめ」となったとか。
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「よしひめ」と読む説もありますが、どんだけ可愛かったんでしょうね。
ところがどっこい、彼女には可愛いだけじゃない逸話がたくさんあります。
娘の嫁ぎ先で運命は激変!? 父・清顕の苦悩たるや……
愛姫の実家は、現在の福島県三春の大名・田村家でした。
東北と「田村」でピンと来た方もいらっしゃるかもしれません。
史上二人目の征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫といわれている家柄です。
本当かどうかはタイムマシンを使ってDNA鑑定でもしないとわかりませんが、この誇りが田村家と愛姫を大きく支えることになります。
とはいえ、誇りだけでは家がもたないのが戦国時代。
愛姫の父・清顕(きよあき)には男子どころか他に子供が生まれず、愛姫をどこに嫁がせるかによって家の命運が完全に決まってしまうことになったのです。その苦悩たるや、凡人には計り知れません。
この辺の清顕の嘆きぶりは、大河ドラマ独眼竜政宗の原作である、山岡荘八先生の「伊達政宗」で詳しく描かれています。
ものすごく簡略化していうと「何でお前はもうちょっと悪賢く生まれてきてくれなかったの(`;ω;´)」みたいな感じです。
政宗と愛姫、実は又従兄弟でもありまして
まあそれはともかく、苦悩の末に清顕が愛姫の嫁ぎ先として選んだのが、伊達家でした。
伊達家はこれより数十年前には東北の大部分を治めていたこともあったので、実力は充分。
家柄としても、藤原氏の流れをくんでいるので申し分ありません。
もしかしたら、祖先が公家同士ということで、好感を持ったかもしれませんね。
ついでにいうと、政宗のひいじーちゃんの娘が田村家に嫁いでいるため、政宗と愛姫はまたいとこでもあります。ややこしい(´・ω・`)
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ともかく、そういった経緯で愛姫は11歳のとき、伊達家へ嫁ぐことになりました。
状況が状況ですので、「二人めの男の子は田村家を継がせること」という条件付きで。
伊達家としては長男をもらえればそれでいいので、特に異議はなかったようです。
しかし、嫁いだ後もしばし苦難は続きました。
ついてきた愛姫の乳母が謀反の疑いで誅殺されたり、15年間も子供に恵まれなかったり……。
後者については、政宗が戦続きであまり城にいなかったから、というのもあるのですが、その割に側室のほうが先に懐妊していたりするので、愛姫としては相当悩んだことでしょう。
伊達家の跡継ぎは他の女性の子供でも問題ありませんが、自分が最低でも二人男の子を産めなければ、実家の田村家が断絶してしまいます。
秀吉を警戒して「懐剣」を常に携えていた
田村麻呂の血を途絶えさせる訳にはいかない、どうか子供を……と、神仏に祈っていたであろうことは想像に難くありません。
情勢が変わり、豊臣秀吉によって「大名の妻子は京に住むこと」と決められたため、愛姫も京都へ移り住むことになります。
ただ引っ越しただけではなく、他の大名の妻たちとそつなくお付き合いをこなし、政宗が国許にいる時には手紙で京の情勢を知らせていたとか。
また、秀吉の女好きや天下の動きを警戒して「いざというときのために、懐剣を常に携えております。私のことは気にせず、殿は大義に従って去就をお決めください」(意訳)という、気丈な手紙を書いたこともありました。
可愛いだけではない、愛姫の誇りと聡明さがうかがえます。
他の大名の妻にも、「秀吉の前に出るときには武器を忍ばせていた」という話がいくつかありますので、当時の常識だったのかもしれません。
まぁ、秀吉の側室たちの出自を見れば、そうせざるをえませんけども。
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念願かなって、最初に子供を授かったのは京に移ってからのこと。
愛姫は26歳になっていました。当時の初産としてはかなり遅めです。
このとき生まれたのが、後に松平忠輝の正室となる五郎八姫でした。「いろはひめ」と読みます。
彼女もなかなか面白いエピソードが多い人なので、また日を改めて注目しましょう。
老齢の域に入りかけた41才で出産!
愛姫はその後、数年おきに懐妊し、三男一女に恵まれました。
残念ながら、幼いうちに亡くなった子もいますが、それは当時の状況では仕方のないことです。
一番下の子供を授かったとき、愛姫はなんと41歳。
現代でも高齢出産に入りますが、そもそも当時の感覚では老人に入りかけの年齢です。
それに、政宗には他にもたくさんの側室がいました。
それでもこの年齢で懐妊したということは、二人が本当に仲が良かったということなのでしょう。
といっても政宗も愛姫もただのバカップルではなく、名家の誇りを生涯忘れることはありませんでした。
政宗は亡くなる直前、愛姫の見舞いや世話を拒んでいるのです。
「こんなみっともない姿を、正室に見せてたまるか!」という気概からのことです。
そして、最期まで愛姫と会わないまま、政宗は息を引き取りました。

政宗が存分に活躍できたのも愛姫さんのチカラが大きかったのでしょう/イラスト・富永商太
しかし、愛姫はそれを恨みはしなかったと思われます。
理由は二つ。
後に「夫のありのままの姿を残したい」と、片目の政宗像を作らせていること。

瑞巌寺にある伊達政宗の甲冑像。眼帯の着用はなく、右目は閉じるような佇まいとなっている/瑞巌寺公式サイトより引用
そして、政宗の死から17年経った愛姫自身の死に際には「せめて、夫の月命日に旅立ちたい」と命を永らえさせ、見事その通りになったことです。
最後に会えなかったことを恨んでいたとしたら、17年も経ってなお、「夫の月命日に」なんて考えないですよね。
夫が亡くなるまでだけではなく、自分がこの世を去るその時まで、彼女は政宗のことを本当に愛していたのでしょう。
ご冥福をお祈りします。
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【参考】
愛姫/Wikipedia
福島県三春町
瑞巌寺