愛姫(伊達政宗正室)

絵・小久ヒロ

伊達家

愛姫(政宗の正妻)が背負った名門の重責!坂上田村麻呂の家を……

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政宗の長男を産んだのは側室だった

愛姫は11歳のとき、伊達家へ嫁ぐことになりました。

状況が状況ですので「二人目の男児は田村家へ養子に出す」という条件付き。

伊達家としては長男をもらえればそれでいいので、特に異議はなかったようです。

しかし、嫁いだ後もしばし苦難は続きました。

ついてきた愛姫の乳母が殺されたり、政宗との間には15年間も子供に恵まれなかったり……。

後者については、政宗が戦続きであまり城にいなかったから、というのもあるのですが、その割に側室のほうが先に長男を懐妊していたりするので、愛姫としては相当悩んだことでしょう。

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伊達家の跡継ぎは他の女性の子供でも問題ありませんが、田村清顕には愛姫の他に子が無く、万が一のときには御家断絶のピンチになります。

実際、天正14年(1586年)に田村清顕はそのまま亡くなってしまい、結局、清明の甥・田村宗顕(むねあき)が中継ぎ当主として当主となっていました。

最終的に田村宗顕は政宗の傘下に組み込まれて御家存続を果たしますが、それまでにはお家騒動のゴタゴタがあり、家中が伊達派と相馬派に二分されたので、愛姫としては居ても立っても居られなかったことでしょう。

 

秀吉を警戒して「懐剣」を常に携えていた

しかも戦乱の情勢が次々に変わり、豊臣秀吉によって「大名の妻子は京に住むこと」と決められたため、愛姫も京都へ移り住むことになりました。

ただ引っ越しただけではなく、他の大名の妻たちとそつなくお付き合いをこなし、政宗が国許にいる時には手紙で上方の情勢を知らせていたとか。

また、秀吉の女好きや天下の動きを警戒して「いざというときは匕首(あいくち)で首を切りますので、私のことは気にせず去就をお決めください」(意訳)という、気丈な手紙を書いたこともありました。

可愛いだけではない、愛姫の誇りと聡明さがうかがえます。

他の大名の妻にも「秀吉の前に出るときには武器を忍ばせていた」という話がいくつかありますので、当時の常識だったのかもしれません。

まぁ、秀吉の側室たちの出自を見れば、そうせざるをえませんけども、実際のところは、秀吉当人やその妻・ねね北政所)には気に入られて厚遇されていたようです。

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由緒ある愛姫の出自も気に入られていたのかもしれませんね。

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