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【慶長遣欧使節】
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月ノ浦から出航
ソテロは名門貴族の家に生まれ、サラマンカ大学で神学を学んだエリート聖職者。熱意と才知に溢れ、弁が立つ人物でした。
そんなソテロが熱心に売り込んだのならば、政宗が乗り気になるのも無理はないところです。
政宗としても、当初は通商を結ぶことだけが目的だったのでしょう。奥州の発展を願う政宗にとって、スペインとの通商はまさに夢の取引です。
ところが話はソテロによってどんどん大きくなります。
ソテロとしては、日本の奥州王・伊達政宗が布教したがっていると本国や教皇庁に伝えれば、大きな成果となります。
幕府から許可を得た「訪墨施設団」を送るだけではなく、それを隠れ蓑として仙台藩の「訪欧施設団」を送ることにしたのです。
一方、政宗は幕府から許可を得ないまま、「カトリックの教えを仙台領内で広めたい、フランシスコ会の宣教師を派遣して欲しい、そうすれば厚遇する」と言う内容の協定書をこっそりと使節に持たせたのでした。
かくして慶長18年(1613年)9月15日、伊達家臣の支倉常長らとソテロの野心を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、白い帆をかかげて月ノ浦から出航します。

復元されたサン・ファン・バウティスタ号/wikipediaより引用
同年、幕府はプロテスタント国のオランダと正式に国交を結び、東インド会社との交易を開始。長崎平戸に「オランダ商館」が出来ます。
つまり、江戸幕府とカトリック教国は手切れというわけです。
さらに幕府は、その年の暮れにはキリシタン禁教令を発布し、本格的なキリシタン弾圧を始めます。
これを懇意であった柳生宗矩から聞いた政宗は「領内から早速キリシタンを追放する」と幕府に伝えながら、言葉とは裏腹に庇護をするのですが、結局、それも長くは続かないのでした。
スペイン王や教皇をも魅了した支倉常長の誠実さ
使節団一行は地球の裏側メキシコに到着すると、慶長19年(1614)メキシコを発ち、その年の秋にはスペイン・セビリアに到着しました。
ここはソテロの本拠地ですから、熱烈な歓迎を受けます。
同時に、ソテロと支倉常長はスペイン政府から事情聴取を受けます。常長のおだやかで落ち着いた物腰は相手に好感を与えたのですが、肝心の受け答えには曖昧な点がありました。
奥州王・政宗とは本当にそれほど強大なのか?
本気でカトリックを広める気があるのか?
日本での禁教令についてはスペイン側にも情報が届いています。
日本の皇帝(家康)が布教を禁止しているのに、その配下の者に過ぎない「奥州王」とやらが布教できるというのはありえるのか?
スペインが疑念を抱くのも当然です。
それでも一行はさらにスペインの首都・マドリードへ向かい、国王フェリペ3世に謁見を果たします。
常長は国王やフランスのルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュが臨席する中、洗礼を受けたのでした。
ソテロは常長を伊達政宗の親族であり、家中一番の家臣と紹介していました。
これが誇張であることをスペイン側は気づいていました。
それでも常長の謙虚で落ち着いた態度はフェリペ3世にまで感銘を与えます。
スペイン政府内では使節の目的を訝しみ、追放するべきだという意見すら出ていたのですが、そうはなりませんでした。
常長ら一行はスペインからローマへと向かい、教皇パウルス5世との公式謁見を果たします。
ここでも常長の態度は好評で、彼が持参した政宗からの漆器等の贈答品も歓迎されました。
念願の教皇公式謁見を果たし、スペインに戻った使節一行。常長はスペイン王から政宗への返書を希望しましたが、政府は断りました。
スペイン政府は、国外に早急に退去するようにとの通告を行いました。
いくら常長の人柄が優れていようと、彼らは使節の目的を疑っていたわけです。
一行はスペインを出立、帰路フィリピンのマニラでサン・ファン・バウティスタ号を売却すると、便船で仙台へと帰国したのでした。
帰国後、待っていたのは歓迎ではなかった
支倉常長常長ら一行が外海へ出て、日本を留守にしている間、幕府は政宗の挙動に不信を募らせていました。
メキシコに使節を送るドサクサに紛れ勝手に遣欧使節を送ったこと。
領内にキリシタンを匿っていること。
こうした状況を鑑みて『キリシタンの力を得て何かよからぬことを企んでいるのでは?』と疑っていたのです。
この見方は実際その通りで、政宗はスペイン側から「キリシタンの保護者」であり「日本の権力者」だというお墨付きを得たかったのでしょう。
問題は「それにどれだけの意味があったのか?」という話です。
常長が仙台に戻った直後の元和6年(1620年)、政宗はキリシタン保護政策を転換し、領内にキリシタン禁令の高札を立てました。
キリシタンは捕らえられ、迫害され始めます。
政宗を頼り、匿われていた彼らにとっては最後の望みを絶たれたのです。
政宗としては、スペイン王からの返書もなかったわけですから、もはやキリシタンを匿う理由もないわけです。
彼の場合、純粋に信仰心があったわけではなく、利益のために家臣領民をキリシタンにすると考えていただけでした。
その可能性がなくなったからには、幕府の疑いの目をそらすためにも、キリシタン迫害は当然のことです。
常長は帰国から二年後、失意のうちに死去。
ソテロは寛永元年(1624年)、長崎に密入国した罪により火刑に処され、殉教しました。
タイミング的にも悪く、スペインでは冷遇された遣欧使節――遠く欧州にまで夢を抱えてたどり着いた、という歴史ロマンはありますが、支倉常長には気の毒ですし、『結局、政宗は何をしたかったの?』と言いたくなる気持ちもわからなくはありません。
やはりこれは当時のスペインの事情やイエズス会とフランシスコ会の対立、ソテロの存在に注目すると、わかりやすくなるのではないでしょうか。
この壮大な事業は、伊達政宗とルイス・ソテロという、優れているけれども大風呂敷を広げてしまう二人だからこそ、なし崩し的に推し進められてしまったのではないでしょうか。
結果的に、この壮大で杜撰な計画は、スペイン政府側が指摘していた
「家康が禁教政策を打ち出しているのに、政宗がそれを認めるのはありえない」
これに尽きると思います。
過大評価されがちな事業ですが、政宗には他に成功した内政政策などが数多くあります。
ことさらに遣欧使節を彼の偉業として強調すべきことではないと思うのですが、皆様はいかが感じられるでしょう?
もちろん、単なる無駄な計画、海外旅行だったと言い切れないのも確かです。
遣欧使節関連資料はユネスコの世界記憶遺産にも選ばれましたし、サン・ファン・バウティスタ号は観光施設になりました。
そういう意味では、当時はあまり意味がなくとも、現代に遺産を残した事業と言えるのかもしれません。
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文:小檜山青
【参考】
大泉光一『キリシタン将軍伊達政宗』(→amazon)