細川忠利/wikipediaより引用

細川家

細川忠利(光秀と藤孝の孫)が名門細川家を継ぐ~54万石大藩の責任感

天正十四年(1586年)11月11日は、後に熊本藩主となる細川忠利(ただとし)が誕生した日です。

父は細川忠興

つまり忠利は、忠興の父である細川藤孝細川幽斎)の孫になりますが、それだけではなく母が細川ガラシャ=明智玉ですので、明智光秀の孫にもなるんですね。

父:忠興(藤孝の息子)

母:ガラシャ(光秀の娘)

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もしかしたら2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では赤ん坊ぐらいでの出演があるかも……と言いたいところですが、忠利は長男ではなく三男。

普通なら部屋住み(だいたい穀潰しと同義)の身になりそうな生まれ順なのに、忠興の跡をついで藩主になりました。

そこにはやっぱり、忠興のいろんな意向が影響しており……忠利が生まれた時の話から振り返ってみましょう。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

嫁が逃げたから、オマエは廃嫡&カンドーな!

忠利が生まれたのは、本能寺の変(1582年)から四年後の天正14年(1586年)ことでした。

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あんな事件があった後も父ちゃんと母ちゃんは……というのはさておき、このころ豊臣秀吉はまだ全国を統一しておらず、これもまた忠利の成長に影響を与えるきっかけとなります。

忠利は生まれつき体が弱く、母である玉子(細川ガラシャ)を大変心配させていました。

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そして忠興が秀吉に従い、九州征伐のため留守にすると、玉子はキリスト教の修道士のもとへ説法を聞きに行き、以後強く影響を受けていきます。

古今東西、病気に立ち向かうために信仰にすがる人の例は数知れません。

玉子もまた、健康のために忠利へキリスト教の洗礼を受けさせたともいわれています。

はっきりとはわかりませんが、少なくとも他の大名の子息よりキリスト教に関する知識はあったことでしょう。

忠利の運命が大きく変わるのは、長兄・細川忠隆と次兄・細川興秋(おきあき)が関ヶ原の戦い以降に立場を悪くしてからです。

忠隆自身は忠興とともに東軍に属し、戦功も挙げていたのですが、玉子と共に大坂の屋敷にいた忠隆の妻・千世が、玉子の自害に際して一人だけ逃げたことを、忠興から咎められたのです。

玉子自身がそうするように指示をしたといわれているので、むしろ姑の命に従った嫁ということで正しいことのはずなのですが……いかんせん、相手がエクストリーム愛妻家ですから理論は通じません。

忠隆は廃嫡・勘当されて、細川家から追い出されてしまいます。どんだけ……。

 

次兄は「養子になったからアウト!」そして忠利へ……

次兄の興秋は「前に興元(忠興の弟)の養子だったから」という理由で、跡継ぎの順番を弟にすっ飛ばされました。

彼もガラシャの子供であります。

が、忠興があっさり「忠隆を廃嫡したから、俺の跡継ぎは忠利な!!」(※イメージです)と決めてしまったのです。

徳川家康の息子・結城秀康だって、別に無能ではなかったのに「秀吉の養子だったから」という理由で二代将軍になれなかったという見方があります。

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一方、当時の忠利は江戸で人質になっておりました。

そこから世継ぎになるということが決まり、代わりに興秋と交代。

しかし、納得出来ない興秋は、江戸に向かう途中、自ら細川家から出ていき、頭を丸めて仏門に入ってしまいます。

忠隆・興秋ともに祖父の細川藤孝(細川幽斎)を頼っているので、結局「細川家」からは出て行っていないような気もするんですけどね。

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