三淵藤英

三淵藤英/絵・小久ヒロ

細川家

三淵藤英(藤孝の兄)はなぜ信長に自害させられたのか? 史実の生涯まとめ

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
三淵藤英
をクリックお願いします。

 

信長の協力を取り付け、義昭ついに15代将軍

朝倉氏の庇護下に入った義昭は、京都復帰と将軍就任を目指し、諸大名へ協力を要請します。

彼が文書を発給した大名の数は非常に多く、その中でも特に手助けを期待していたと思われるのが上杉謙信織田信長でした。

まずは謙信。

12代将軍・足利義晴のころより懇意な関係にある上杉家にまずは望みをかけました。

が、関東で北条氏康や信濃で武田信玄との抗争に明け暮れている身では、そう簡単に上洛の支援はできません。

武田信玄
史実の武田信玄は最強の戦国大名だった?人物像に迫る生涯53年まとめ

続きを見る

北条氏康
謙信や信玄と渡りあった北条氏康とは?関東制覇を進めた57年の生涯

続きを見る

次に協力を見込んだのは織田家です。

すでに永禄8年(1565年)には藤孝の仲介で、信長と義昭の間に交流をもたせておりました。

義昭の要望に対し信長は「いつでも上洛にお供いたします」と非常に前向きな返答を行っており、義昭の幕臣らは彼に大きな期待をかけたことでしょう。

ところが、永禄9年(1566年)になると、これまで上洛に乗り気であったはずの信長が突如として協力を渋り始めるのです。

 

永禄11年――いざ上洛へ!

実際に、どうやって上洛するか?

おそらくや、信長はそこを考え、冷静になったのでしょう。

このころはまだ美濃・稲葉山城(岐阜城)を制してはおらず、尾張から軍を引き連れての入京は実質不可能な状況にありました。

小規模(80人ほど)の伴を連れての上洛であればすでに経験があります。

京都上洛の信長に向け義龍が放った刺客! どう対処した? 信長公記31話

続きを見る

しかし、一定規模の軍を連れてとなると俄然話は変わってきて、美濃だけでなく、近江でも敵が待ち構えており、現実的ではありません。

こうしている間にも藤英は、同じく幕臣の和田惟政らと共に別の上洛工作も手掛けるなど、本気であることがわかります。

信長とは、いささか距離感があるんですね。

そしてこの距離感こそが、後に藤英と藤孝の運命を左右するのですが……それは後述するとして、結局、信長が再度上洛に協力を表明するのは永禄10年(1567年)に稲葉山城の戦いに勝利して美濃を治めた後のことでした。

稲葉山城乗っ取り事件
稲葉山城の戦い~戦国初心者にも超わかる信長公記47話

続きを見る

信長の稲葉山城攻略
信長は稲葉山城(後の岐阜城)をどう攻略したか?その全貌を徹底分析

続きを見る

永禄11年(1568年)9月7日――いざ上洛へ!

義昭ら一行は、織田信長という後ろ盾を獲得して、道中の六角氏を打倒。

仇敵・三好三人衆も、信長を警戒して京都を離れるなど、上洛の障害はすべてクリアされ、同年9月28日、義昭は悲願であった京都入りと将軍職就任を果たすのでした。

信長と義昭 上洛戦の一部始終! 岐阜から京都までどんな敵と戦っていた?

続きを見る

数年の流浪を経てようやく将軍に就任した義昭の晴れ姿を眺める幕臣たちの心情にも、さぞこみ上げるものがあったでしょう。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-細川家
-