三淵藤英

三淵藤英/絵・小久ヒロ

細川家

三淵藤英(藤孝の兄)はなぜ信長に自害させられたのか? 史実の生涯まとめ

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幕府奉公衆として、義昭の側近として活躍

ここまで義昭の将軍職就任への流れと共に三淵藤英の足跡を振り返ってきました。

個人的に細川藤孝和田惟政と比べてインパクトが薄く感じるのですが、それはやはり信長との交流が少なく、特徴的な逸話もないためです。

しかし、藤英が何もしていなかったことにはなりません。

義昭が将軍となって以降は、

・幕府の奉公衆として

・義昭の傍らに仕える側近として

信長と義昭の二頭体制で大きな存在感を発揮するようになります。

地味ではあるのですが、藤英が幕府の実務処理を担ってもおりました。

以下、その両面から藤英の活躍を追っていきましょう。

まず、藤英は幕府奉公衆の一員として多数の戦に参加をしております。

一番派手なのが【本圀寺の変】でしょう。

永禄12年(1569年)1月4日、京都帰還を目論む三好三人衆が将軍・義昭のいる本圀寺を襲いました。

が、三淵藤英や細川藤孝、三好義継、明智光秀らが、守備側が寡兵ながらよく戦い、将軍の窮地を救っています。

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時系列を無視して記述しますと、高槻城での戦いや、三好長勝らとの合戦、あるいは高屋城や京都留守衆としての働きなど、数多の戦歴が残されています。

実務面では、書類の発給や取次などの業務にも携わりました。そして……。

合戦や日常業務なども的確にこなす藤英は、幕府内で大きな力を有し、その事実は外部の人間も知るところであったようです。

実際、戦国時代の一級史料としてしばしば参照される『兼見卿記』の作者・吉田兼見が、藤英を頼りにしており、その影響力が想像できます。

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もともと兼見が弟・藤孝とイトコという関係にあり、藤英のもとへ何度も足を運んでいるのです。

また、時期は定かでないものの、藤英は京都・伏見城主にも任じられ、山城国内に相応の知行地を持っていたと考えられます。豊臣秀吉が築いた伏見城とは別の城で、「三淵伏見城」については詳細がよくわかっていません。

以上の点からも、藤英は幕府内で安定した地位を築いていたことがわかります。

が、時同じくして信長と義昭の対立が表面化していき、幕臣たちは「理想と現実」の狭間で苦しめられるようになっていくのです。

 

藤孝と決別し最後まで義昭に尽くすも、信長に敗れる

永禄12年(1569年)以降、信長と義昭の二人は徐々に確執を抱えるようになっていきました。

義昭は各地の大名に「信長包囲網」を呼びかけ、信長もこの動きに激しく抵抗。

京都は不穏な空気に包まれます。

ここで一番割を食ったのが藤英をはじめとする幕府奉公衆の面々でした。

彼らは「将軍への忠義」を貫いて義昭に味方するか、「強大な勢力」を誇る信長のもとへ走るか、その選択を迫られました。

上洛の際に感じていた信長との距離感とは、まさに義昭将軍の処遇について、でした。

和田惟政も、この対立に懊悩を抱えておりました。

惟政は、義昭と信長の仲介に奔走したと考えられていますが、それが原因だったのか信長の怒りを買い、一時期、史料から名前が消えてしまっています。

1年ほどで許しを得たものの、元亀2年(1571年)、義昭に味方した池田知正との戦いで、惟政は命を落としました。

一方、藤英の実弟である藤孝は、義昭を見限り信長へと接近。

元亀2年ごろから信長への連絡回数が増加しており、元亀4年(1573年)には包囲網の形成を目論む義昭の方針に異を唱えます。

結果、怒りを買い、鹿ケ谷での謹慎や勘当を経て、同年中に藤孝は信長への忠誠を誓いました。

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