北条家

立河原の戦い~戦国初期の上杉・足利・今川・北条が大乱闘スマッシュ!

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徳川家康が江戸に来る前、関東は戦乱ど真ん中のエリアでした。

一つの国を二つ三つの大名家が取り合ってるなんてのがザラ。
代表的な大名が北条氏康、武田信玄、上杉謙信あたりで、関東という大きな枠組みが統一されるのは中央に比べてずっと遅く、戦国初期から大きな合戦がいくつもありました。

永正元年(1504年)9月27日に起きた【立河原の戦い】もその一つ。

「たちかわのはらのたたかい」と読み、上杉家のお家騒動と室町幕府の有力者、そして地元の大名が絡んだ非常にややこしい合戦です。

細かく見ると頭がこんがりまくるので、まずは大局を眺めておきましょう。

 

立河原の戦い=長享の乱を終わらせるキッカケ

15世紀半ば――京都で【応仁の乱】が起きる以前から、関東では大規模な戦乱が勃発しておりました。

ザックリ言うと次の二つの乱です。

◆1454-1482年 享徳の乱
◆1487-1505年 長享の乱

享徳の乱が約30年。
その終結からわずか5年後に長享の乱が始まり、約20年続きます。

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つまりは延べ60年ぐらいの戦乱があったわけで、さらに1600年(関ヶ原の戦い)まで続くと考えますと、合計150年ぐらいになりますね。
凄まじい荒れっぷりです。

では【立河原の戦い】とは何ぞや?
と申しますと、上記、【長享の乱】を終わらせるキッカケになった戦いと言えそうです。

年次をご覧いただいておわかりの通り、立河原の戦いが1504年、その翌年1505年に長享の乱も一応の終止符を打っています。

 

上杉・足利・今川・北条 関東のオールスター出揃う

となると気になるのがこれ。

立河原の戦いでは誰が戦場に赴いたのか?

関係した中心人物をスッキリ挙げるとこうなります。

上杉顕定(山内上杉家)
足利政氏(古河公方)
vs
上杉朝良(扇谷上杉家)
今川氏親(駿河遠江守護
北条早雲(今川氏盟友・小田原城主)

上杉・足利・今川という関東屈指の名門一族が争い、そこに北条早雲が食い込んだんですね。

勝敗については両者痛み分けという感じですが(後述)、関東では享徳の乱~長享の乱を経て両上杉氏が疲弊し、結果的に後北条氏の台頭を許した――と考えると北条早雲の勝利といえるかもしれません。

ちなみにこの戦闘は、立地が非常に関係しておりました。
立河原というのは、現在の東京都立川市付近にあり、関東甲信越の大名がちょうどぶつかり合う地点だったのです。

てなわけで、この合戦に絡んだ武家、それぞれの事情をもう少し詳しく確認しておきましょう。

まずは上杉家のお家騒動から。

 

山内上杉家と扇谷上杉家 どっちも名門だけに

上杉家というと、なんで新潟や会津や米沢にいないんだ?

という印象の方もおられるかもしれませんが、上杉謙信が「関東管領ウエスギ氏いえーい!」とテンション上がったように、もともとは関東の名門です。
足利氏をフォローするため同地に根ざしておりました。

ただし、名門と言っても何度かの分裂劇を繰り返し、この頃はかなり枝分かれしています。

その中で勢力が強かったのは二つ。

一つはもともと鎌倉周辺で関東管領(室町幕府の出先機関での仕事)をしていた、山内上杉家やまのうちうえすぎけ
もう一つは、その分家筋にあたる扇谷上杉家おうぎがやつうえすぎけです。

元を辿ればいずれも足利尊氏の母方で、名門には違いありません。
だからこそ争いが起きてしまうんですが……。

この二つの家がドンパチやってる間に北条早雲が力をつけ、両方とも負けてしまい勢力が弱まります。
本末転倒ですね。

 

室町幕府の名門 古河公方を忘れたらイカンぞよ

上杉氏がある程度まとまるのは、もっと時代が下ってからの話。
越後で謙信(元は長尾景虎)が家名を継いでからです。

名門だったのに、よその家のおかげでまとまったなんて……しかも関東じゃない人に……と思われるかもしれませんが、長尾氏はもともと上杉家に仕える家なので両家は関係が深く、そのために上杉謙信のカリスマと能力が認められたのでしょう。

そして室町幕府の中には、関東に関する役職がもう一つありました。

【鎌倉公方】です。

初代は足利基氏(足利尊氏の四男)で、享徳の乱を機に古河公方こがくぼうと名乗るようになりました(1455年~)。
現在の茨城県古河市に根付いた足利一門であり、公方=将軍格の家のことです。

※1457年に足利義政の命で関東へ出向いた足利政知が【堀越公方】となるも、1493年、北条早雲に滅ぼされている

上杉家のドンパチには、古河公方も一枚噛んでいたので、その後に起きた【立河原の戦い】にも絡んできました。

そして地元の大名というのが後北条氏です。
戦国初の下克上成功者とか、最初の戦国武将といった具合で、大絶賛を浴びる北条早雲ですね。

北条早雲/wikipediaより引用

最近は研究も進んで、北条早雲の正体もかなり明らかにされつつあります。

かつては「素浪人が今川氏にうまく取り入って大名になった!」という下剋上の神様みたいな存在でしたが、実は、伊勢氏という室町幕府のエリート出身というのが有力。

冷静に考えてみれば、一定の立場でないと超名門の今川氏と連携なんて取れませんもんね。

北条早雲の生涯については以下の記事に詳しくありますので、よろしければご覧ください。

北条早雲(伊勢宗瑞)64年の生涯をスッキリ解説!幕府のエリートが大名になる

相 ...

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「於武州立川原合戦戦死不知員」

さて、この戦いで興味深いのは、どちらが勝ったとも言い切れないところでしょう。
史料によって情報が錯綜しているため、専門家の間でも意見が分かれていますようです。

なぜなら史料に
「於武州立川原合戦戦死不知員」
という記載があるように、両軍あまりにも戦死者が多かったのです。

それでいて両軍の大将は無事であるため、どちらが勝ちともいいきれない結果だ、とする説が一つ。

一方で、二千人もの死者を出した上に一族の人間も戦死した
【山内上杉家の負け=扇谷上杉家の勝ち】
という見方もあります。

さらに長い目で見れば、後々、謙信に名前を譲って家名を存続できた山内上杉家の勝ち、なんて説もあります。
うーんややこしい。

上杉謙信/wikipediaより引用

関東では、主に二つの戦乱の中で、こうした合戦が何度か行われていました。
そのため田畑が荒れ続けることになってしまい、都から遠いこともあって、あまり発展はしなかったのですね。

結果、北条早雲・北条氏綱・北条氏康・北条氏政という後北条氏が台頭し、上杉や足利は追いやられてしまうのです。

まぁ、その北条も、豊臣秀吉による小田原征伐で滅亡へ追い込まれ、後釜に入った徳川家康に天下が流れるのですから、何が正解かなんて本当にわかりません。

小田原征伐をスッキリ解説! 北条家が強気でいた小田原城はどんだけ強い?

【 ...

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
立河原の戦い/wikipedia

 



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