北条氏康/wikipediaより引用

北条家

北条氏康の関東制覇!謙信や信玄と争った57年の生涯【戦国北条五代記】

御獄城落城の一報は、周囲の武将たちに多大な精神的ショックを与え、上野地域や憲政の側近から次々と離反者が出たのです。

室町以来の由緒正しい名門を自負していた憲政にとってこれは屈辱以外の何物でもなく、しかし、さりとてこのまま抵抗を続ければ自身の破滅は明らか。

憲政は、味方が領有していた新田金山城(群馬県太田市)や下野足利城(栃木県足利市)といった拠点へ逃げ込み、再起を図ろうとしましたが、これらの城も氏康に従う勢力から攻撃を受けており、入城することすらかないません

もはや万事休す――。
重臣・長尾憲景が本拠とする白井城(群馬県渋川市)を経由して越後まで逃れ、関東上杉氏の没落はついに公のものとなりました。

関東上杉氏の打倒は、氏康だけでなく北条早雲(伊勢宗瑞)・北条氏綱という北条三代にとっての悲願。
かつて「他国の逆徒」として彼等に嘲笑された北条氏は、逆に上杉勢力を関東から駆逐したのです。

以後、憲政をかくまった長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻や、山内上杉方の残存勢力による抵抗を退けつつ、弘治2年(1556年)までには、かつての山内上杉旧臣らを北条に従属させることで動乱を収束させていきました。

さらに、永禄2年(1559年)までには、上野の国衆をすべて勢力下に収め、ここに上野国の支配を確立します。
北関東への覇権をも唱えるまでに成長したのです。

 

古河公方勢力へプレッシャー! 外甥を後継者とさせる

関東上杉氏の没落は、地域武士たちにとってショッキングな出来事でした。

これまで上杉を中心に構成されていた政治秩序は乱れ、その結果、古河公方の立場で権威を有していた足利晴氏は、氏康から強烈なプレッシャーを受け始めます。

もともと河越夜戦で氏康に敵対してしまって以降、晴氏との良好な義兄弟関係は崩れつつありました。
氏康も、さすがに妹の夫・晴氏を攻め滅ぼしたりはしませんでしたが、苦しい局面で攻撃してきた義弟に対し「よくもやってくれたな……」という態度になります。

そして冷え込みつつあった両者の関係は天文21年(1552年)、ついに限界を迎えます。

氏康は、すでに晴氏の嫡男として古河公方足利家を継承する予定であった足利藤氏を廃嫡に追い込むと、自身の妹と晴氏の間に生まれた梅千代王丸(後の足利義氏)を新たな後継者として定めたのです。

もちろん一連の「人事異動」が北条氏の意向によって行われたものであることは言うまでもなく、梅千代王丸が古河公方となることで、氏康は外甥の威光を背景に関東の諸勢力へ対峙しようと考えたのでしょう。

まるで平安時代に一世を風靡した藤原氏の摂関政治。
外戚の位置から氏康はさらなる権力を手にしようとしたのです。

ところが、です。
氏康の横暴によって廃嫡を余儀なくされ、人生を一変させられた「元嫡男」の足利藤氏からしてみれば、足利義氏の後継んだお看過できるものではありません。

彼らは天文23年(1554年)に氏康の指示を無視し、かねてからの本拠地である古河城へ勝手に入城して公然と反旗を翻しました。
小山氏や相馬氏、さらにはいまだに抵抗を続けていた旧山内上杉氏勢力からの支援を受け、最後の抗戦を試みたのです。

対する氏康は、自身の勢力だけでなく、公方家に仕えていた義氏らの旧家臣勢を味方として古河城を攻めました。

両者の力差は歴然であり、氏康はかつての協力者を猛然と打倒。
結果として足利晴氏は相模国波多野へ幽閉されてしまいます。

氏康にしてみれば「晴氏を含め反対勢力を一掃したかったが、こちらからは手を出しにくかった。それが謀反によって大義名分が転がり込んできた♪」と思っていてもおかしくないほど絶妙な権力一本化の好機でした。

以後、氏康と古河公方足利義氏による新たな政治体制が構築されていくことになったのです。

 

甲相駿三国同盟の締結と、氏康の形式的な隠居

関東地方を制圧していく傍らで、氏康は外交面における同盟の締結にも勤しみました。

彼が同盟相手として構想したのは、北条氏と同様に強大な勢力を有する武田氏と今川氏。
彼らと北条氏は河東地域の戦乱を経て、その後、小康状態を保っており「敵でも味方でもない」という中立の関係になっておりました。

そして天文19年(1550年)、今川氏と武田氏の間で同盟の機運が高まったことを知った氏康は、北条氏としてもそこへ参入して三国同盟を形成したいと考えるようになります。

具体的な交渉は天文20年(1551年)から始まり、3年後の天文23年(1554年)に話がまとまると、三家がそれぞれ姻戚関係を結んで【甲相駿三国同盟】が成立しました。

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北条氏の視点から三国同盟を評価してみると、武田・今川の勢力を背景に関東攻略へ専心できるという利点に加え、上杉憲政をかくまった上杉謙信ら越後上杉氏との全面対決に備えた対応策という側面も有していたことでしょう。

実際、天文21年(1552年)には景虎によって北条領内が攻撃されており、彼らとの抗争が眼前に迫っているという状況下にあったのです。

しかし、同盟を締結させ、いよいよ上杉氏との対決を控えた永禄2年(1559年)、氏康は突如として家督を嫡男の北条氏政へ譲り、自身の隠居を表明したのです。

もっとも、この隠居は非常に不思議なものでした。
なぜなら氏康は体調を崩していたわけでも、領地支配の気力を失っていたわけでもなかったからです。

では、なぜ氏康は形式的な隠居を余儀なくされたのか。

その答えとして考えられている要因に、ここ数年、北条領内を襲っていた飢饉と疫病の流行という危機が挙げられます。

氏康はこうした現象への対処に手を焼いてしまい、形式上だけでも「代替わり」を行うことで責任をとった――そして、新当主となった息子の北条氏政に徳政令を出させることで、領民に対する救済を表明したという説があります。

以上の経緯からもわかるように、氏康としてはあくまで形式的な代替わりを実施したに過ぎず、彼はこの後も「御本城様」と称されて実質的な北条氏の当主であり続けました。

したがって、永禄3年(1560年)から北条氏を悩ませた上杉謙信の関東侵攻については、基本的に氏康が中心となって対処していたと考えてよいでしょう。

 

上杉謙信との「関東覇者決定戦」に勝利

永禄3年(1560年)の5月から、上杉謙信が越後を出て関東へ出兵してきました。

これは北条氏が当時攻め込んでいた里見氏の救援要請に応える形での遠征であり、当然ながら北条氏とは敵対。
憲政を庇護し、かつ関東上杉氏と深い縁がある上杉謙信の侵攻を受け、氏康は苦戦を強いられます。

これまで北条氏に従っていた上野・下野の一部国衆が彼への服属を表明したのです。言ってみれば離反ですね。

ばかりか国境沿いの支城が次々に攻略されていく現状を受け、氏康はいったん里見氏攻略を諦め、河越城や武蔵松山城に兵を進めました。

しかし、これまで北条氏に味方していた上野・武蔵の国衆はほとんどが謙信につくという始末で、さらに一本化を成し遂げたはずの公方勢力がふたたび分裂してしまうなど、北条氏にとって謙信の襲来は「巨大災害」のような影響がありました。

永禄4年(1561年)には、謙信によって本拠・小田原城への攻撃も赦します。

小田原城を攻められるのは、北条氏の歴史上初めてのことであり、氏康は危機的状況を迎えたかに思えました。

しかし、そこは難攻不落の小田原城。
さすがの謙信も首尾よく攻略することができず、やがて撤退の構えを見せます。

彼は帰路で山内上杉氏の名跡を継承し、これによって謙信もまた【関東管領】たる資格を手にするのです。
氏康にしても、先代・北条氏綱の功績によって【関東管領職】を名乗っていましたから、以後の戦いは「関東の支配者」にどちらがふさわしいか――という正当性の争いという見方もできます。

謙信と氏康の戦いは、結論から言えば氏康優位に進行していきました。

彼は同盟相手である武田氏と連携を図りながら、永禄7年(1564年)に勃発した【第二次国府台合戦】などに勝利し、しだいに勢力を回復。
さらに永禄9年(1566年)には、再び遠征してきた謙信が下総の小金城・臼井城攻略に失敗して帰国を余儀なくされると、「勝ち馬に乗るなら北条・武田側につくべきだ」と判断した国衆らが一斉に北条へ降ってきたのです。

結果、謙信の勢力は大幅に衰え、永禄11年(1568年)になると、もはや関東への出陣すらも行わないようになっていきました。

氏康は先の三国同盟を最大限活用し、見事に越後上杉氏を撃退したのです。

 

晩年は実質的にも隠居したが、影響力は健在だった

謙信の侵攻を防いでいた永禄8年ごろから、実は氏康は、戦へ出向かないようになっておりました。
形式上だけのことではなく、実質的にも息子の北条氏政に当主としての権力を譲ったということを意味しています。

とはいえ、個人的には、氏康の影響力そのものが全くなくなったとは思えません。
そのことを示す外交的な出来事として、三国同盟の成立によって協力関係にあった武田氏が駿河に侵攻したことに端を発する越相同盟の成立と破棄が挙げられます。

協力者同士の争いに際して今川氏への肩入れを表明した氏政は、武田氏に敵対すると同時に、これまでしのぎを削っていた上杉氏との同盟を模索しました。

詳しくは北条氏政の記事に譲りますが(後日公開)、永禄12年(1569年)には、北条と上杉の間で越相同盟が成立。
しかし、これは有効な支援を得られることはありませんでした。

いざ武田氏の攻撃を受け、謙信へ援軍の申し入れをしてもスルーされ、武田信玄に小田原城への攻撃を許すほど追い込まれるのです。

誰の目にも明らかなほど劣勢に追い込まれた元亀元年(1570年)、氏康は大病を患いました。

一時は子供の顔も見分けられないほど衰弱し、一時は持ち直すものの翌年にふたたび病状が深刻化。
元亀2年(1571年)に57歳でその生涯を終えてしまいます

すると北条氏政は、父の死をキッカケに外交政策を大転換します。

これまで同盟相手でありながら有効な支援を受けられなかった上杉氏を見限り、代わりに目下抗争中である武田氏との間に甲相同盟を締結。
かねてから上杉氏の不義理については家中で問題視されており、氏康という権力者の死を契機として政策を一変させたのです。

ここに、氏康という人物がどれほどの存在感を放っていたかが示されているように感じます。

 

内政面に関しても多大な功績を残した

ここまで、氏康の生涯を政治・外交的な視点から解説してきました。
彼については前述の視点だけでも高い評価を下すことができる人物でありますが、他にも内政面で大きな功績を残しています。

最後に氏康の内政を振り返ってみましょう。

まず氏康は、税制の改革に力を入れました。
天文19年(1550年)には「諸点銭」と呼ばれた様々な税を整理・統合して一律6%の「懸銭」という仕組みを導入したほか、棟別銭を減額したうえで段銭を8%に定めるなど、領民の負担や領国経営の安定化に配慮した内容になっています。

弘治元年(1555年)には、北武蔵地方で大規模な検地を実施する傍ら、ふたたび税制の調整を行い、翌年には家臣らの普請役負担状況を調査させ『小田原衆所領役帳』を作成させました。

さらに彼は、北条家中に独自の官僚機構を創設。
評定衆などを組織したうえで領国支配の補佐を担当させ、訴訟手続きなどは彼らが処理していたと考えられています。

他にも、公定升の制定や、貨幣制度・伝馬制の確立などに注力。
北条氏の領国支配体制を完成に導いたといっても過言ではないでしょう。

彼が取り入れた諸制度の中には、後年、江戸幕府の支配体制に組み込まれたものも確認できるため、単に戦や外交のセンスが光るだけでなく、頭脳明晰な人物でもあったことが窺えます。

文:とーじん

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※息子の北条氏政・孫の北条氏直も近日中に公開予定です。

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【参考文献】
国史大辞典
『戦国時代人物事典(学研パブリッシング)』(→amazon
『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon
『戦国北条五代(星海社)』(→amazon

 



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