北条早雲/イラスト・富永商太

北条家

北条早雲(伊勢宗瑞)は幕府のエリート出身!? 元祖・下剋上大名の生涯64年

相模に根付き、関東全域に影響を与えた後北条氏の始祖・北条早雲

その出自や経歴を考えると、実は「伊勢宗瑞」あるいは「伊勢新九郎」という名前のほうがより正しいと考えられています。

後述しますが、元々は室町幕府の名門官僚の出なのです。

斎藤道三大内義隆など、戦国時代初期に名を馳せた、北条早雲の生涯を見てみましょう。

 

室町幕府のエリート武士だった

北条早雲本人の話の前に……戦国ゲームやマンガにおける「北条氏」って、かなり有名ですよね?

特に北条氏康は、武田信玄や上杉謙信と五分に渡り合い、関東No.1の武将に考えられるような存在。

その氏康の息子である北条氏政と、孫の北条氏直が、秀吉に小田原を滅ぼされますが、彼ら親子が降伏する1590年まで北条は関東でも最大の大名でした。

小田原征伐で秀吉相手に退かず! 北条家が強気でいた小田原城はどんだけ強い?

続きを見る

早雲から続く北条一族を整理しておきますと……。

1代 北条早雲

2代 北条氏綱

3代 北条氏康

4代 北条氏政

5代 北条氏直

早雲から始まり5代で滅亡したということになります。

北条氏綱55年の生涯をスッキリ解説!関東へ躍進だ【戦国北条五代記】

続きを見る

北条氏康の関東制覇!謙信や信玄と争った57年の生涯【戦国北条五代記】

続きを見る

北条氏政はなぜ最期まで秀吉に反抗したか? その生涯53年【戦国北条五代記】

続きを見る

北条氏直30年の生涯 秀吉と対峙した関東覇者の最期とは【戦国北条五代記】

続きを見る

 

では、北条氏はいかにして始まったのか?

古い戦国本になりますと、

「一介の浪人が今川氏や足利氏のトラブルに乗じて城を乗っ取り、下剋上で勢力を拡大した」

なんて解説がありますが、現在ではほぼ否定されています。

出自に関して様々な説がある早雲も、近年では

「父は伊勢盛定、母は京都伊勢氏当主かつ政所執事・伊勢貞国の娘である」

というのが有力です。

ゆえに伊勢宗瑞とか伊勢新九郎が本名だとされるのですね。

しかも、伊勢氏は単なる浪人なんかじゃありません。

父の盛定は、政所執事の伊勢貞親と共に、室町幕府八代将軍・足利義政の申次衆(将軍と武士を取り次ぐ役目の官僚)だったとされる人物です。

足利義政(八代目将軍)が幕府崩壊の始まり? 56年の切ない生涯マトメ

続きを見る

伊勢貞親は足利義政の育ての親ともいえる立場ですから【応仁の乱】前後によく出てくる名前。

本コーナーの応仁の乱をご覧いただいた方は、なんとなく覚えておられるでしょうか。

応仁の乱って何なんだ?戦国時代の幕開けとなった大戦をコンパクト解説!

続きを見る

そんな名門出身の北条早雲は、自身は「北条氏」を名乗っておらず、息子の北条氏綱の代からでした。

父の死後しばらく経った大永三~四年(1523~1524年)あたりとされています。

 

姉が今川家に嫁ぎ氏親を産む

早雲の血縁者としては、姉or妹とされる北川殿も重要です。

彼女は駿河守護・今川義忠の正室だと考えられています。

北川殿が文明五年(1473年)に産んだ今川氏の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)と、早雲の関係も大きなポイント。

名門今川家の当主が甥っ子にいるというわけで、早雲自体の出自もなかなかの位であったことが想像できますね。

ただし生年は不明でして、現在有力な説が康正二年(1456年)。

その27年後の文明十五年(1483年)に九代将軍・足利義尚の申次衆に任命されているので、まあ打倒な生年でしょうか。

その前に足利義視に仕えていたとされる時期もあります。この説で行くとその頃10歳程度になってしまうため、義視には仕えていないかもしれません。

まあその辺は今後の研究で明らかになるとして、先へ進みましょう。

早雲は、1487年に奉公衆(幕府の武官)に任命。

幕府に仕えながら、建仁寺と大徳寺で禅を学んでいたとされています。

これは彼の人生観に大きく影響を与えました。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-北条家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.