井伊家

『城山城と三岳城の険しき道』 おんな城主直虎ゆかりの地を歩く~直虎紀行 肆の巻

 

三岳城(三岳)

三岳山

さて、こちらに見えるは三岳山(静岡県浜松市北区引佐町三岳)である。

平成の大合併の時、浜松市は「(浜松駅前に建つ)アクトタワーが見える場所は、皆、浜松市」を合言葉に合併交渉を進めた結果、高山市に次いで面積の広い市(全国2位)となった。

三岳山を見るたびに、「三岳山が見える場所は、皆、井伊領」という言葉が頭に浮かぶ。それほど、井伊領のどこからでも見られる高山であり、井伊家の象徴とも思われる山である。

三尊形式の美しい山で、中央が三岳山(標高466.8m)、左が兎荷山、右が立須峰だ。

三岳山の山頂にある三岳城は、写真で見ても分かるように、

「来たついでにちょっと寄って行こう」

というレベルの城ではない。それなりの服装と装備で向かわないと後悔する。

 

三岳城

三岳山の山頂にある三岳城へ行くには、大きく分けて、東(滝沢)・西(花平・兎荷)・南(南西の井伊谷から南に回り込む)・北(川名)から登る4ルートがある。

今回は、井伊谷からのコースで登ってみた。

 

登って行くと、三岳神社の鳥居がある。

三岳神社

三岳神社(通称「権現さま」)は、江戸時代は「三嶽大権現」といい、蔵王権現を祀っていた。

が、明治の神仏分離令により名を「三嶽神社」と変え、ご祭神も廣国押建金日命に変更。「広国押武金日天皇」「広国押建金日命」とは、27代安閑天皇のことである。その名の「金日」から、金峯山の蔵王権現であるとされている。

安閑天皇は、26代継体天皇の第一皇子である。継体天皇といえば、その後裔である三国氏の系図に「共資・共保」親子が登場することから、井伊氏は藤原氏ではなく、三国氏だとする説が生まれた。「いわんや戦国武将においてをや」である。

この三岳神社がある場所が、三岳城の出丸である。南北朝時代、宗良親王がおられたという。この場所は、二之丸から見下ろせる場所にあり、天皇家の人が住まわれるには相応しくない場所である。

───なぜ最高所にある本丸ではないのか?

───それは「水」の問題であろう。

 

沢

神社の東に沢がある。この水は飲めるそうだ(飲まなかったけど)。

水は水槽に溜められ、塩ビ管が手水舎まで延びている。

 

水

石垣もあった。

古くはここに水が溜められ、この水を宗良親王も、井伊直虎も飲まれたに違いない。

 

三岳城は、昭和19年(1944)3月7日に国指定史跡となった。

ただ、その指定判定の事前調査が行われて以降、学術調査が行われていないこともあり、「水の手」は、この神社脇の沢と2つの井戸しか発見されていない。

一基の角の井戸は、本丸南西400mにあり、宗良親王が自ら水を汲まれて飲まれたという。もう一基の角の井戸は、本丸北東400mにある。どちらも城域の隅にあり、共に「角(すみ)の井戸」と呼ばれている。

本丸にも二之丸にも井戸が無い。北の川名から三岳山に登る道には湧水が見られるので、まだ発見されていない井戸がどこかにあると思われる。発見できたら、城ガールのヒロインになれるかな?

 

神社の沢の反対側にある登山口から

井の国

神社の沢(東側)とは逆(西側)が登山口である。

山頂まで500m。ここにあるのが「井の国」ブーム時代の案内だ。

解説文を引用させていただこう。

「当城は三岳山の山頂にあり、井伊氏の築いた諸城の内の本城である。南北朝時代、延元 三年〔一三三八〕秋、後醍醐天皇の皇子宗良親王が再び伊勢より井伊谷に入られ、この城 を南朝勢力の遠江における軍事上の拠点となされた。
足利尊氏勢の高師泰・高師冬・高師 兼・仁木義長の大軍に攻められ、ついに興国元年〔一三四〇〕正月落城し同年八月二十四 日夜、詰城太平城も追い落とされて南朝の拠点は失われた。宗良親王は駿河の安倍城に移 られたものと推定されている。
その後戦国期元遠江守護であった美濃の斯波義達が井伊谷 に入り、曳馬城大河内貞綱と井伊氏がこれにくみした。今川氏親は細江町刑部城・堀川城 に伊達忠宗を入れて前進基地として三嶽城をせめた。永正十年〔一五一三〕に掛川城主朝 比奈泰以を主力とする今川勢の総攻撃によって落城した。(後略)」
※「太平城」は「大平城」の誤り。
※「永正十年」に三岳城が落城したというが、永正十一年説もある。

井伊氏の本城である三岳城で戦いが行われたのは、南北朝時代、宗良親王が在城されていた時(古文書には「井伊城」とある)と、戦国時代に今川氏と斯波氏の遠江守護職を巡る争いのとき(古文書には「深嶽の城」とある)だという。この頃、井伊氏は南朝方(宗良親王側)であり、斯波方であった。

南北朝時代640

戦国時代640

 

永正10年、あるいは11年、三岳城が今川氏に奪われた。

城番として入城した奥平貞昌については、江戸幕府の公式文書である『寛政重修諸家譜』に、天文4年4月20日に遠江国御嶽城において85歳で病死したとある。つまり、少なくとも天文4年(1535)までは三岳城は今川氏に奪われていたという事である。

天文5年(1536)に今川義元が宗主となると、井伊直平は、早速、娘を人質として送り、今川氏と和解して、三岳城を返してもらった。返却時期については不明。天文11年(1542)には、井伊直宗が今川軍に従軍して討死しているので、遅くとも天文11年には返してもらっていたと考えられる。

この話がなぜ重要かと言うと、奪われたのは三岳城だけではなく、「全て」だとされているからである。つまり、井伊氏居館も奪われていたというのである。

 

───では、井伊一族は20年以上、どこで暮らしていたのか?

一説には井伊直平が引馬城主となって引馬で暮らしていたという。永正16年(1519)に井伊直宗が祝田の蜂前神社に田を寄進した文書から、当時、直宗が伊平の井平城に在城していたことが分かっており、井伊一族が伊平で暮らしていた可能性が高いという。

しかし、「全て」を奪われたはずの井伊直平は享禄4年(1531)、龍泰寺造営のため井伊谷八幡宮を八幡山から現在渭伊神社がある薬師山に遷座し、同所の村名を殿村から神宮寺村と改め、天文元年(1532)には、黙宗瑞淵を開山として、龍泰寺(現在の龍潭寺)を建てている。

こうなると
「敗者で全て奪われたはずなのに、なんでこんな財力があるんだ」
「本当に伊平に隠れて住んでいたの?」
と疑問が湧いてくる。

※井伊谷八幡宮の遷座については、南北朝時代とする説もあるし、江戸時代とする説もある(江戸時代の境内図には「正八幡宮」が本殿の裏に描かれている)。殿村から神宮寺村への改名についも、薬師如来が祀られた時からとする説もある。

話を戻そう。この「井伊一族がどこに住んでいたか」という議論がなぜ重要か。

─── 天文4年(1535) 奥平貞昌、三岳城で没

ここに注目したい。

天文4年(1535)年は、井伊直虎の許婚の井伊直親が生まれた年。そして、井伊直虎も1535年前後に生まれたとされている。井伊直虎が生まれた場所は井伊氏居館とされているが、もしかしたら、伊平で生まれたのかもしれない。

ただし、彼女の母親は今川庶家・新野氏の新野親矩の妹(娘とも)であるので、父親の井伊直盛が結婚したのは、今川氏との和解成立後だと思われる。もしかしたら、「井伊家次期宗主と今川家の親戚との結婚」も和解条件の中に含まれていたのかもしれない。

 

再び山登りへ。

日本武尊

しばらく登ると、お堂跡があり、木立の向こうに小さな祠が見える。

三岳神社の奥宮。ご祭神は日本武尊である。

『礎石伝』には、「御嶽山ト申候者、井伊谷之内也。往古、日本武尊東征之時、彼、山に十三天狗住候而諸氏令難候所、尊、井伊谷ニ御滞溜被為有候而御退治被遊候由、申伝へ候。依之尊を此山ニ奉斎、御嶽大権現ト申候」とある。

日本武尊が三岳山に住む13の「天狗」(山伏? 修験者?)、別の伝承では「土蜘蛛」(山人?)を住民の要請により成敗して下さったので、「御嶽大権現」として祀っているという。三岳神社のご祭神も、安閑天皇ではなく、日本武尊でいいような気もする。

 

登山道

先の写真(「井の国」ブーム期の案内板の写真)の標識にあったように、神社から本曲輪までは500mである。

「たった500m、されど500m」

山頂への道は、辛く、苦しく、そして、長い(ただ単に運動不足?)。

「井伊直虎も井伊家の宗主として、この城に登城したことであろう」と戦国時代に思いを馳せつつ、気合で登る。

 

コル

「コルに到着!」

と、登山家気取りで、覚えたての登山用語を使ってみた。「コル」とは、「鞍部」のこと。峠であり、尾根である。

このコル(T字路)の左側(西側)が一の城、右側(東側)が二の城である。

先に二の城へ向かおう。堀切(尾根を堀で切る山城特有の防御構造)がなく、尾根を歩いていけばいいので、楽である。歩きやすい。

 

二之丸

井伊谷城(城山城)を見た後でもあるので、

「意外と狭い」

と感じた。

山城では、「数少ない広い平削地」よりも、「数多くの狭い平削地」が好まれるようで、この規模の山だと、数十の小曲輪があっても不思議ではないという。

 

縄張り

ここにも「井の国」ブーム期の案内があった。かなり汚れていたので、次回は濡れ雑巾を持って行こう。

城歩きに縄張り図は欠かせない必須アイテムであるが、観光客は持参していないことが多いので、縄張り図は、ここよりも登山口に掲示した方がいいように思う。

 

分岐

分岐点に戻り、「一の城枡形門跡」から一気に坂を登る。

 

巨岩

頂上付近に巨岩があった。

天然の石塁であろうが、位置的に磐座(いわくら)っぽい。

───磐座は山頂にある。

と思ってる方が多いが、山頂は神の座であるので、山頂の少し下にあることが多い。

 

本郭

本曲輪(三岳山の山頂)に到着!

ここからの眺めは絶景!!!

「疲れが一気にふっとんだ」

と言いたいところであるが、体は正直である。ここに足りないものがある。それは、ベンチだ。

 

西郭

「ベンチが無いのは、『休んでいる場合ではない』という三岳の神の天啓か?」

と、西の曲輪へ向かう。

───広い。

 

さて、本来であれば、このまま西麓へと下るのであるが、今回は三岳神社へ戻り、さらに東へ、立須峰へと向かうことにした(どんどん直虎とは逸れていくが・・・)。

Y

三岳神社の鳥居前の道を東へ進むと、Y字路がある。

左の下り坂は、井伊直平の墓がある川名への道で、右の道は、立須峰(蛇王山)から御岳(滝沢山)へと向かう道である。御岳は、合併前の浜松市の最高所(標高394m)。その手前に滝沢展望台があり、夜景スポットとして有名である。

 

風力発電

立須峰の頂上は、10基ある風力発電用風車の、最初の風車の下を右(南)へ折れたところにある。

 

立須へ

山頂への道は険しいが、三岳山ほどきついとは思えないし、距離も短い。

 

立須付近

山頂付近には、修験者が建てた大日堂の跡がある。大日堂になる前は「大せち神社」という式内社であったという。(「せち」の漢字はJISに無く、表示できない。)

立須山頂

こちらが立須峰の山頂である。

「立須(たちす)」は「龍巣(たつす)」とも書く。まさに龍が巣穴から出て来そうである。

「熊野の修験道体験ってやったことある? 『西の覗き』をやってみない?」

と言われても、いじめとしか思えない。落ちたら死ぬ。ということで、今回の記事もオチ無くペンを置く。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城



-井伊家
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.