井伊家

小野政次(直虎のライバル)が権力争いで奪い取った天下は34日で終了した

大河ドラマ『おんな城主 直虎』で高橋一生さんが演じ、一躍お茶の間で話題になった戦国武将。

それが小野政次である。

直虎のことを想いながら叶わず、最期はその直虎に槍で胸を突き殺されて死ぬ――

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――あまりに衝撃的なラストは視聴者の度肝を抜き、同時に『実際の小野政次もそんな死に方だったの?』という疑問を視聴者に喚起した。

では、史実における彼は一体どんな人物だったのか?

本稿では小野政次の生涯を振り返ってみたい。

 

遠祖をたどると、あの小野妹子に突き当たる!?

コトの真偽はさておき、井伊谷に勢力を保持していた小野氏は、小野篁(802-853)の後裔を主張していた。

小野篁は平安時代の公家であり、秀才として名を馳せ、遣唐使の副使に就任。

大使の藤原常嗣(つねつぐ)とケンカをして同職務を放棄すると、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐に流されたが、優秀な人材であったため再び京に呼び戻され、その後も和歌や学問の才をいかんなく発揮――ということで現代にまでその名を轟かせている。

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政次の主筋である井伊氏の先祖は、1010年に生まれた井伊共保(ともやす・藤原共資の子)であるからして、歴史的には小野氏の方が200年長い。

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そんな小野家で26代小野政直の長男として生まれた政次は、生年は不明ながら1554年に家督を継ぎ、井伊家の家老に就任した。

井伊直虎(柴咲コウさん)や井伊直親(三浦春馬さん)、直親の妻らと幼なじみであったという説もあるからして、同世代であったことは間違いないだろう。

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ともかく政次が家老についたとき、井伊家は宗主・直盛が今川義元に仕えており、同家と共に勢力を伸さんとしている状況でもあった。

生前の父・政直は、今川の忠臣でもあったため井伊家の状況は逐一、義元に報告されており、跡を継いだ政次も同様のポジションで活躍しようとしていたことが窺える。

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そして井伊家と小野家の間に火種が投下される。

弘治元年(1555年)のことだ。

 

桶狭間により御家安泰の神話が崩れ……

その年、政次(推定20歳)のときに、亀之丞(井伊直親の幼名)が逃亡先から帰国。

宗主・井伊直盛の養子として井伊直親を名乗り、奥山朝利の娘・ひよ(ドラマではしの)と結婚すると、政次の立場は少しずつ複雑になっていく。

というのも井伊直親の父・直満は、小野政次の父・政直の讒言により殺されており、直親自身も命を狙われ、10年間におよぶ逃亡生活を余儀なくされているのである。両者の仲がギクシャクすることは避けがたく、実際直親は、政次との接触を避けるため井伊谷から離れた祝田(ほうだ)に屋敷を建てたという。

そんな状況に拍車をかけたのが1560年5月のこと。
桶狭間の戦い】で今川義元が織田信長に討ち取られたのである。

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今川方として合戦に参加していた井伊衆は約300人(研究者により200~500人)。その人的損害はかなり激しく、井伊家の主な家臣たちも16名が死亡し、宗主・井伊直盛も殉死している。

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出陣せずに井伊谷城を守っていた政次も弟の朝直を失うほか、他にも井伊家の有力家臣・奥平家で宗主・朝宗が亡くなった。

絶対王者・今川義元についていればお家は安泰――。

そんな安全神話が崩れ、三河・遠江の両国は「忩劇(そうげき)」とよばれるカオス状態に突入したのである。

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