井伊家

直虎のライバル・小野政次が奪い取った天下はわずか34日で終了した

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小野政次
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徳政令が施行されれば更なる混乱&貧困へ

直虎が地頭になった頃、今川氏真から「井伊谷徳政令」の催促が出された。

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「徳政令」とは、銭主(高利貸し)から借りた借金を帳消しにするもの。

領主から発せられる命令であり、借金に苦しむ武士や農民は一時的には助かるが、施行後は金を借りれなくなるため、結局、生活が続けられなくなってしまう。

直虎が地頭に就任した時の井伊氏は、度重なる戦争で人も金も失い、田畑も荒れ、銭主に借金をして糊口を凌いでいる状況であった。

ここで徳政令が施行されれば、さらなる混乱、貧困を呼ぶため、直虎は銭主の商人・瀬戸方久(ドラマではムロツヨシさん)と結託して、「井伊谷徳政令」の施行を凍結してしまう。

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これに対し、銭主の出現を快く思っていなかった祝田禰宜(蜂前神社神主)は、農民や家老・小野政次を味方につけ、領主・直虎に徳政令の施行を迫った。

直虎は、徳政令を施行しても、被害が最小限になるように龍潭寺の所領を安堵、瀬戸方久も今川氏真に所領を安堵させる。

そして永禄11年(1568)11月9日、徳政令が施行されると、ついに井伊直虎は地頭職を解任されるのであった。

 

支配者の歓喜が逃亡者の悲劇に変わるとき

いよいよ小野家が井伊領を奪い取った───と政次も心の底から喜んだであろう。

井伊領の支配は、父あるいはずっと前の世代からの悲願だったのかもしれない。平安貴族・小野篁末裔としての誇りなども当然感じていたハズだ。

が、その歓喜はすぐに悲劇に変わる。

同年12月、三河国の徳川家康が遠江国侵攻を始め、13日には井伊谷城を攻めたてたのだ。

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城兵は戦うこと無く逃亡。城主としての力量不足を完全なまでに露見させてしまったのであろう。

小野政次の天下は、わずか34日間のことであった。

家康の追手から逃れるべく、竜ヶ岩洞(洞窟)に隠れた小野政次は近藤氏によって捕縛された。

そして永禄12年(1569)4月7日、井伊家の処刑場である「蟹淵」で処刑が行われる。

1535年生まれであれば、享年は34。

また、小野政次の2人の子も5月7日に処刑された(『南渓過去帳』より/龍潭寺蔵)。

 

蟹淵の現地へ出向いてみた

蟹淵の両岸は「大堰(おおせぎ)河原」と呼ばれ、その右岸が処刑場だったという。

ダムのことを「せき(堰、関)」というが、この付近では「せぎ」と言う。

実際に足を運んでみると、河川工事により、「淵」は広くも深くもなく、河原も左岸にしかなかった。

また、大堰河原にあったという小野政次の墓や複数の供養碑も、蟹淵近くの路傍に移動されていた。

かくして嫡男・小野政次の家系は絶えた。ただし、小野氏自体は、政次の弟・玄蕃の家系が与板藩の家老家となっており、浜北区尾野にはご子孫もおられる。

蟹淵と大堰河原

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小野政次の墓と供養碑群

小野政次の墓と供養碑群

事件には、こんな後日譚がある。

小野政次が怨霊となって現れたので、これを鎮めるため、小野屋敷(井伊谷城の三之丸)に塚(墓)を築いた――。

江戸時代になって井伊氏が彦根に移住し、近藤氏が井伊谷の領主になると、小野屋敷を陣屋とした。

このとき誤って塚を平らに均してしまったので、二宮神社の神主・中井氏は、二宮神社の境内(鳥居付近)に但馬社(祭神:但馬明神=小野政次)を建てて、鎮魂した。

現在、この但馬社は、拝殿横の天王社に合祀されている。

天王社(二宮神社の境内社)

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」https://naotora.amebaownd.com/

Sengoku Mirai s 直虎の城

 

※1『奥山家旧記』

【原文】「外伝、私記。中野氏越後守、後改信濃守直由ト云フ者、親族相争発兵戦、於井伊谷敵軍不利走矣逐之至奥山襲城急今川出師救之、直由軍、疲不能当於今川ノ軍故、放火於気賀上下而去住参州加茂云云。永禄五戌、直親公討死。永禄六亥、直平公七十五歳ニテ有玉幡屋ニテ落馬逝去。按スル、直親公討死故、早々小野但馬押領シテ此時、直由トノ合戦(同所ニ在リ尤モツケ届)相成タルカ歟。親秀ハ為但馬障害トアリ。又、『忍家中同姓ノ記』ニ氏真ニ被押寄、討死トアレバ、何レ永禄五、六ノ頃、奥山城モ明ケ渡シタルカ。前件ノ直由忠房トモ云、七郎左衛門ト改名シタルカ、永禄七甲子九月十五日逝ス。墓、龍潭寺ニアリ。」

【大意】外伝や私記によれば、中野越後守直由(後に信濃守と改名)は、井伊一族の内紛が起こると、井伊谷城では不利だとして、奥山城に入った。中野軍は疲れていて、今川軍と戦える状況になかったので、気賀上村・下村に火を放って三河国へ逃げたという。考えてみるに、永禄5年に井伊直親が死ぬと、小野政次が井伊領を横領したので、領主・中野直由が戦ったのではないかと思う。また、「奥山親秀(朝利)は、永禄3年(1560)12月22日、小野但馬守政次に殺された」という。また、「奥山朝利は、今川氏真に攻められて討死した」ともいうから、永禄5,6年の頃、奥山城が明け渡さたのではないか。なお、中野直由は、永禄7年(1564)9月15日に亡くなり、墓は龍潭寺にある。

 

※2『濱松御在城記』

【原文】「永禄五年三月ハ井伊谷、同年四月ハ引間、同年七月ハ嵩山、此三城へ駿河ヨリ人数ヲ差向、被攻候。井伊谷、嵩山ハ落去。引間ノ城ニテハ、寄手ノ大将・新野左馬助、討死。」

【大意】永禄5年(1562)、今川氏は謀反の罪で、朝比奈軍に3月に井伊氏の井伊谷城、7月に奥山氏の市場城(豊橋市嵩山町)を攻め落とさせた。4月には新野軍に飯尾氏の引馬城を攻めさせたが、落とせず、逆に攻める側の大将・新野左馬助が討死した。

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