今川館は後に徳川家によって駿府城という近世城郭に生まれ変わった/wikipediaより引用

今川家

【戦国愚将伝その弐】今川館の戦いで逃げるしかなった氏真、北条家へ

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東海地方の戦局を一変させた桶狭間の戦い
今川義元が討たれ、織田信長が台頭していったのは皆さんご存知でしょう。

同時に今川家は坂道を転げるように落ちていくことになるのですが、そのキッカケが海に飢えた虎こと武田信玄でした。

義元のいた頃は固く結ばれていた【甲相駿三国同盟】を事も無げに破り、【薩埵峠の戦い】で氏真を敗走させたのは以下の記事に記しております。

【戦国愚将伝】薩埵峠の戦いで部下に裏切られた氏真は本当に無能なのか?

永 ...

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今回はその続き。
永禄十一年(1568年)12月13日に起きた【今川館の戦い】です。

 

最初から不利だった【今川館の戦い】

【今川館の戦い】といっても、【薩埵峠の戦い】同様に大して戦ってはおりません。
「城」ではなく「館」とついていることからもお察しのとおり、この今川の居館は防御機能の脆弱な建物だったからです。

もともと足利家に連なる名門・今川家は、駿府を「東の都」といわれるほど区画整理の整った街にしていました。

そんなところに仰々しい城は似つかわしくないと思ったのか。
京の御所になぞらえたか。
あるいは「名門のウチがこんなところまで攻め込まれるわけがない」とタカを括っていたのか。

武家としてはあるまじき失態です。

もし小田原城のような要塞を構えていたら、他ならぬ北条氏康北条氏政の援軍が間に合ったかもしれません。

武田信玄とて、籠城中の今川軍と、血気盛んに攻めてくる北条軍の両者を相手にするのは厳しいものだったでしょう。

いや、だからこそ信玄に攻められたとも言えますね。
今川館の城下町は、碁盤の目状に区画整理されていたため、日常の交通は便利でしたが、敵が来たときにはあっさり攻め込まれてしまう構造をしておりました。

ちなみに現在の東京・下町がやたら入り組んだ道になっているのは、家康がこの辺を見越してわざと道を複雑に作らせたからだといわれています。

特に上野や千住方面は江戸城から見て鬼門(北東・縁起の悪い方向とされていた)だった上、そのずっと先=東北には野心満々の伊達政宗や、徳川に対抗していた上杉家がいたのですから無理もありません。

 

八方塞がり もはや逃げるしかない

さすが家康は抜け目ない……という話はここまでにして、当時の今川家の状況を三行でまとめてみます。

三行まとめ

薩た峠から意気揚々と進軍の信玄
防戦すら出来ない今川館
出撃したと思ったら即リターンの主君・氏真

もはや氏真も武田軍の勢いを前に為すすべなく、いったんは出撃しても戻ってしまったのですね。
裏切りの連続で仕方ないとはいえ……今川家臣の苦労が偲ばれます。

もはや逃げるしかなかった氏真。
妻の早川殿に対して「別の城に篭るから早く準備してね!」とバタバタしっぱなしで、彼女は輿も履物も用意できず着の身着のままで逃亡という悲惨なものでした。

氏真夫妻は掛川城(現・静岡県掛川市)に向かって落ち延びていきます。

掛川城

お供は数十~百人程度だったそうで、とても名門の一行とは思えない人数だったそうで。
侍女などの非戦闘員も含まれているでしょうから、とても戦える部隊ではなかったでしょう。

しかし、このことが北条氏康や北条氏政を「ウチの可愛い娘に恥かかせやがって!武田許すまじ!!」と激怒させ、後に武田家をピンチに陥れるのですから因果応報と言いましょうか。

しかも氏真は77歳まで長生きするのですから、メンタルが相当タフネス。
名前と家を残す――という意味では最も成功した戦国武将の一人と言えるかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon

 



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