絵・小久ヒロ

今川家

武田軍の駿河侵攻は「薩埵峠の戦い」から始まった!そのとき今川軍は……

永禄十一年(1568年)12月12日、今川家と武田家による【薩埵峠の戦い】がありました。

「さったとうげ」と読み、この戦いは、桶狭間で今川義元が斃れた後の同家を知る上でポイントになる戦です。

実際にはろくに戦ってないんですけど……ともかく戦局を見て参りましょう。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

すでに氏真に家督を譲っていた!?

一昔前までの今川と言えば【桶狭間の戦い】が起きた頃まで、当主は今川義元と思われていました。

しかし、最近の研究ではその時期には既に嫡子・今川氏真に家督を譲っていたという説が有力です。

つまり【桶狭間で当主がいきなり殺されちゃって、今川家もバタンキュー】というような、なし崩しな展開ではなかったということになります。

今川義元
今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれた実力とは?42年の生き様を見よ!

続きを見る

今川氏真は愚将か名将か~敵だった家康や信長と友好的に振る舞えるのはなぜ?

続きを見る

桶狭間の戦いで信長が勝てたのは必然か『信長公記』にはどう書かれた?

続きを見る

また、

『今川家が滅びたのは氏真が蹴鞠ばっかりやってるアホだったからだ』

なんて指摘もあったりしますが、氏真は決して政治・外交・合戦のことを疎かにしていた愚人ではなかったでしょう。

父が亡くなり動揺する家臣団をとりまとめ、領国の支配強化に注力。

経済観念も悪くなく、たしかに祖母・寿桂尼の助力も大きかったですが、無難にこなしていた模様です。

寿桂尼
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった!

続きを見る

大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも、途中から腹を据えて大名としての仕事に取り組む姿勢が描かれておりましたよね。

ただ、やはり運が悪かったとしかいいようがないのでしょう。

当時、敵対したのが武田信玄松平元康徳川家康)のダブルコンボという、もはやいじめレベルだったわけで、彼は彼なりにきちんと情勢を理解して戦おうとしています。

 

甲相駿三国同盟を破棄した信玄

さて、本題の【薩埵峠の戦い】に参りましょう。

きっかけは、家康が今川家から離反したことでした。

徳川家康(松平元康)が直面した3度の絶体絶命!75年の生涯まとめ【年表付】

続きを見る

多くの方がご存知の通り、幼いころ織田家や今川家の人質になってた家康は、義元が生きている間は逆らうことができず、今川家の武将として信長と戦ったこともあります。

しかし目の上のたんこぶがいなくなれば、当然、自分の家を自分で守りたくなるというもの。

そこで信長と清洲同盟を結び、一応は独立した大名として歩んでいたのでした。

一方、これを横から見ていたのが武田信玄。

武田信玄が戦国最強「甲斐の虎」と呼ばれる理由~知略に塗れた53年の生涯

続きを見る

そもそも武田・今川・後北条の三家は【甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)】という舌を噛みそうな名前の平和協定を結んでいました。

しかし、その同盟の中で唯一の内陸国である甲斐(現・山梨県)の武田家としては、交易や軍事その他諸々の状況からしてとにかく「海」が欲しい。

そんなタイミングで、今にも瓦解しそう(に見える)今川家がいるのですから、「よーし、ワシ、ちょっとぶん捕っちゃうぞ」と考えるのも無理はない話。

というか何が何でも取る気なので「徳川と協力して今川家を潰そうZE!」と家康に書き送る念の入れようでした。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-今川家

© 2021 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)